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おバカ一筋インタビュー〜林家木久扇の華麗なる交遊録〜

林家木久扇(C)週刊実話

2019年11月に『笑点』出演50周年、そして2020年、芸能生活60周年を迎えた林家木久扇師匠。黄色い着物に身を包み「バカ」を突き詰めて今も観客を爆笑させている。そんな木久扇師匠に、『笑点』の裏話から豪華すぎる有名・著名人との“交友”を中心に話を聞いた!

――まずは、『笑点』に加入した当時の話をお聞きしたいです。

林家木久扇師匠(以下、木久扇)「『笑点』に大喜利メンバーとして入ったのは1969年、僕が32歳のときです。当時は、ちょうどカラーテレビが導入され始めた頃で、メンバーの衣装も色紋付になった。僕は日本テレビの衣装部で『好きな色を選んでいいですよ』と言われて、最初にパッと目に飛び込んできた、黄色を選んでそのまま。50年以上〝黄色い恋人〟をやっていますよ(笑)」

――まさにテレビの黎明期から現在に至るまで活躍されています。

木久扇「立川談志さんが、『笑点』を始めた当初は、まだまだ白黒テレビが主流で、本当に移り変わりの時期でした。ちなみに僕は、その『笑点』創設者である談志さんの推薦で、大喜利メンバーになったんです」

――当時、談志師匠からアドバイスはありましたか?

木久扇「加入時に『木久蔵は与太郎役だよね』と言われました。つまり僕が今でも続けている、おバカなキャラクターのことですよね」

――談志師匠のひと言がきっかけだったんですね。

木久扇「そうなんです。それからずっとおバカ一本でやってきて、大喜利はもちろん、『いやん、ばか〜ん』のギャグでレコードまで発売させてもらいましたから」

――木久扇師匠の代名詞ともいえる「いやん、ばか〜ん」のギャグは、どのように誕生したんでしょうか?

木久扇「サンフランシスコで『笑点』初の海外公演を収録したときのことです。外国では大喜利のダジャレは通用しないので、歌を使おうと考えました。さらに、アメリカですから、お馴染みのジャズならと、『セントルイス・ブルース』に乗せて『いやん、ばか〜ん』を披露したんです。そしたら、もう大ウケで!」

――狙いが的中したんですね。さすがです!

木久扇「〝絶対にひっくり返してやろう〟という気持ちで臨みましたから。やはり、どこに行っても冒険してウケないと駄目ですからね。それが芸人の性というものです」

各司会者から助言を…

――ちなみに、普段の大喜利では、どのように回答を考えているのでしょう?

木久扇「僕は、他の人と発想が少し違って、答えになりそうなギャグやキャッチーな文句が先に浮かんでいるんです。昔から漫画を描いていたこともあり、ここぞという決め台詞を作るのが得意なんですよね。ちなみに、それは使い回しができる(笑)。だから、その場に適したギャグや決め台詞をその都度、答えているんですよ」

――なるほど。歴代の司会の方々は、それを理解されていたのでしょうか?

木久扇「そうですね。例えば(桂)歌丸さんは、僕が面白いことを必ず言うと分かっていたので、お客さんが静まって波が変わったときに、決まって指すんです。そこでドカッと盛り上げる。出題されて、僕がはじめにハイと手を挙げても指してくれませんでした(笑)」

――やはり司会の方によって、仕切り方や指名のタイミングは違いましたか?

木久扇「はい。番組の雰囲気も違っていて。僕が入った当初の司会・前田武彦さんは、ラジオの構成作家だったので、答えを拾うのが上手くて『それまたやってね』と指示をくれました。打って変わって、その次の三波伸介さんは生粋のコメディアン。『木久ちゃん、もっとこう驚くと絵的に面白いよ』と芸人の目線で助言をしてくれましたね」

――最も長く司会を務めた先代の三遊亭円楽師匠はいかがでしたか?

木久扇「自分の感想やアドリブを言わない人でしたね。回答に口を挟まず、どんどん手を挙げた人を指していきました。逆に、次の歌丸さんは指す人を最初から決めていたようですよ。今の六代目円楽さんが捨て石でね(笑)。ウケなくても出題の始めに手を挙げて。そこからだんだん熱く盛り上げる。計算高い人でした」

――司会が誰かでガラリと雰囲気が変わったんですね。現在の春風亭昇太さんは?

木久扇「テレビの時代の司会者ですね。面白い部分を拾って前面に出すよりも、ヒョイヒョイと転がして賑やかに盛り上げる。明るいですね。ただ、他のバラエティーと同じにならないよう気を付ける必要がありますけどね」

中国でラーメンを出店!?

――なるほど。そこは差別化を図らないといけない。

木久扇「そうですね。今のバラエティーを見ていると、ひな壇で若手の芸人さんがワーワーと仲間内で仲良く話していますよね。『この前、おごってくれなかったやん!』とか身内話で盛り上がって、見ている側は話に入れなくて面白くない。だから、僕たち笑点メンバーは普段食事したり、飲みに行ったりしないんです。仲良くなっちゃいけない」

――そうなんですか! それは意外です。

木久扇「大喜利の面白い緊張感がなくなってしまうので、馴れ合いはしません。仕事が終わったら、パッと別れますね。だから、(三遊亭)小遊三さんが何してるか、山田隆夫くんのプライベートとか全然知らないんですよ(笑)」

――皆さん、それは共通認識なんでしょうか?

木久扇「一人芸をやる落語家に、職業的に備わっていることだと思います。仲良くしたくないわけではなく、立ち入っちゃいけないという意識がある。話芸は、それぞれ個人商店であるし、大喜利で競い合っている面もありますから。外には笑いを売っているけど、みんな繊細で感度が高い人たちなのでね。だから、なあなあになったら駄目ですよ」

――ちなみに、最近の芸人さんでは、それこそおバカキャラが特徴の方も増えていますが、どうでしょう?

木久扇「本人がどれだけ濃い人かが重要ですよね。素人さんが次々と興味を持つような面白みを持つ人が、化けているか。僕だったら例えば、森永乳業で働いて、漫画家になって、落語家になるという経歴があったり、市川崑先生の『犬神家の一族』の映画に出たり、ラーメン屋をやったりね」

――経験が芸の肥やしになるということですね。

木久扇「ラーメンで中国に出店しようとしたときは、日中国交正常化に尽力した元総理の田中角栄さんが仲介をしてくださったんですよ。でも1000坪、2000坪の場所を紹介されて、困ってしまいました。だけど、断れなくて8回も北京に行ってね(笑)。結局、天安門事件が起きて、中国側の方で断ってきたので助かりました。ラーメンだけに、テンヤモノ事件! 経験にもオチがつくんです」

あの大物芸人と銀座で朝まで

――木久扇師匠は、落語以外での活躍も多く、交友関係も広いかと思います。

木久扇「そうですね。特に僕は、漫画家として漫画協会にも入っているので。昨年亡くなられた、さいとう・たかを先生は、同世代で仲良くしていただいていました。僕が海苔が好きだって話したら、お中元に茶箱いっぱい贈ってくださる優しい人でした。あとは、2つ年上に赤塚不二夫先生がいて、当時、黒柳徹子さんと子供番組で共演されていた。実は僕もそこに推薦されて出演していたんですよ。皆さんまだ、若いときですから大物じゃなかったんですよね(笑)」

――すごい繋がりですね。他に仲が良かった方は?

木久扇「芸能界でいうと、横山やすしさんですね。六本木や銀座の高級クラブで閉店まで飲んでいた。やすしさんは、酔っぱらうと他のお客さんと大喧嘩して、表に出ちゃう。だから僕がいつもお勘定して、お客さんに土下座して謝罪(笑)。『芸人が明日を気にして寝るな! 遊びに行くんや!!』と夜中に僕の三鷹の住まいにタクシーでやって来て、物干しの竹竿で雨戸を叩いて騒いで、警察を呼ばれそうになったりね」

――(笑)! 最近はお酒は飲まれないんですか?

木久扇「僕はね、お酒が好きで明け方まで飲んでたくらいなんですけど、2回がんになってね。今は、禁酒して3年が経ちました。毎日、体が爽やかで、仕事が楽しくて楽しくて。いろんなことに挑戦して、心地いいですよ」

――素敵ですね。最後に、今後新たにやりたいことや目標を教えてください。

木久扇「漫画が描けるので、落語のアニメを作りたいです。2000もある落語の中から面白いものを選んで子供たちに見せてあげたいな。今は宇宙を舞台にした『長屋スターウォーズ』というストーリーなどを構想中です(笑)」

――それは楽しみです!

木久扇「落語でここまで来たから、その恩返しとして、今後も落語界を盛り上げていきたいです。僕はなんでも大変と思わずにトライする性格なのでね。自分で自分を追い込むのが好きなんです(笑)。自分を困らせて絞ったときに何が出てくるか。これからも挑戦していきたいですね」

(文/kitsune 企画・撮影/丸山剛史)

林家木久扇(はやしや・きくおう)
1937年10月19日、東京都出身。一般企業、漫画家を経て、1960年に三代目桂三木助に入門し木久男の名をもらう。翌年、師匠三木助の死去にともない、八代目林家正蔵一門へ移籍し、木久蔵に改名。1973年に真打昇進し、2007年には木久扇に改名。そして2019年11月に『笑点』出演50周年を迎えた。一方で「木久蔵ラーメン」のチェーン展開も行っている。

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