島田洋七 (C)週刊実話Web
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漫才を諦めさせた元弟子・松田君~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

吉本にいる頃、毎月1週間、なんばグランド花月の舞台にB&Bとして立っていました。


ある日、楽屋でくつろいでいると「弟子にしてください」と松田君という子が弟子志願に来た。漫才師にしては男前だったので「俳優のほうがええんちゃうか」とアドバイスすると、「僕は洋八師匠のことが大好きなんです」。「俺は洋八ちゃうし。大好きというのに名前からして間違っているやん」とツッコむと、「すみませんでした」と土下座して謝る。


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それを聞いていた楽屋の芸人は大爆笑。「明日、もう一度おいで」と促すと、翌日も姿を現した。「昨日はすみませんでした。洋七師匠の下で漫才の勉強をしたいんです」と熱弁を振るうから、「親の承諾書を持ってきなさい」。前にも書きましたが、弟子志願の子には親の承諾書を持ってくることを課していました。


1回目のステージが終わり、3時間近くの休憩中、楽屋で弟子と食事をしていると、彼の実家は姫路なのに1時間ほどで親の承諾書を持って来た。「お前の家は姫路やろ。新大阪から新幹線に乗っても往復で3時間はかかるやろ」と訝しがると、またも土下座して「すみません。自分で書きました」。すると前日の様子も見ていた兄弟弟子の今いくよ・くるよ姉さんが「もう弟子にしてあげ。こんなおもろい子いないわ」。でも、親の承諾書は必要だと伝えると、後日持って来たから弟子にしました。

「医者にでもなれ」

弟子として約1年たった頃、吉本の芸人養成所の生徒とコンビを組んだので、ネタを見ることになった。花月の舞台に出ている1週間、毎日ネタを見て「もうちょっとなんとかならんか」とだけ告げました。3カ月ほど続けたのですが、どこで笑えばいいのか、俺にはさっぱり分からない。

弟子や若手のネタを見て、面白くないと思っても「頑張りや」としか俺は口にしないんです。でも、その時ばかりは彼の将来を考え、心を鬼にして「漫才師に向いてないんちゃうか。世の中には他にも職業はある。医者にでもなれ」と冗談で言ったんです。


2年後、その彼から電話が掛かってきた。俺の冗談を真に受けて、2年間の猛勉強の末、なんと金沢医科大学に合格したそうです。以前、いろんな弟子のことを書きました。そこに登場した医学部に合格したのが彼なんです。


たけしと金沢でロケをした時、久々に顔を合わせ、番組にも少しだけ出てもらいました。以来、盆暮れには色々と送ってくれる義理堅い子なんですよ。つい半年前にも彼から電話があって、「あと1年半で医師国家試験を受けます」と話すから、「漫才師にはなれなかったけど、芸能界におったわけやから、時々ユーモアを交えながら、患者さんに寄り添った立派な医者になれよ」と檄を飛ばしました。


電話を切った後、隣で話を聞いていた嫁さんと泣きましたよ。「医者になれ」と冗談で言ったのを本気にしたということは、それくらい俺に憧れていたんでしょうね。それでも「漫才師は厳しい」と俺も勇気を出して言った。


そう突き放さないと辞めないでしょ。お笑いの頭の回転の良さとは違う、きちっと勉強する頭の良さが彼にはあったんでしょうね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。