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野茂英雄「あの監督の下ではやれないと思った」~心に響くトップアスリートの肉声『日本スポーツ名言録』――第7回

Eugene Onischenko
(画像)Eugene Onischenko/Shutterstock

1995年に単身で海を渡り、日本人メジャーリーガーの実質的な先駆けとなった野茂英雄。

投手では野茂、野手ではイチローの存在があったからこそ、以後の日本人選手たちのMLBでの活躍があったといっても決して過言ではない。

これまでに数多くの日本人メジャーリーガーが誕生しているが、その中でも投手として傑出した成績を残しているのが野茂英雄だ。

1995年のメジャーデビューから2008年の引退までに、MBL通算123勝。これは2位のダルビッシュ有を大きく引き離している(ダルビッシュはメジャー10年目となる2021年までに79勝)。アメリカン・リーグとナショナル・リーグ両リーグでのノーヒットノーラン達成は、MLBの長い歴史の中でも4人目の快挙であった。

ロサンゼルス・ドジャース入団1年目には、最多奪三振と新人王のタイトルを獲得。13勝6敗の成績でチームを7年ぶりの地区優勝に導いた。

独特の体をひねる「トルネード投法」とフォークボールで三振の山を築く姿から、アメリカでは「ドクターK」とあだ名され、「NOMOマニア」と呼ばれるファンが生まれるほど人気を集めることになった。

もちろん、野茂の活躍は日本でも大きな話題を呼んだ。街中にはドジャースのユニフォームをまとった人が多く見られ、「メジャーでは三振のことをKって呼ぶんだ」などMLB文化が一気に身近なものになった(Kの由来については「KO(ノックアウト)のKを取ったもの」「審判が〝ストラックアウト!〟と発声する際、Kの音が目立つため」など諸説あり)。

メジャー入りに否定的な日本

日本人(アジア人)初のメジャーリーガーは、サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した村上雅則(マッシー村上)だが、村上は南海ホークス在籍時に球団からの命令で参加した1Aキャンプからの昇格で、特にメジャー志向があったわけではない。

村上は一時ストッパーを任せられるなど活躍したが、南海から呼び戻されたため、その期間は1964年から2年間と短かった。そうして見れば、野茂が日本人メジャーの先駆者として、後進への道を切り拓いたと言って間違いなかろう。

だが、野茂がメジャー入りを目指した当初、周囲の見方は決して好意的なものではなかった。所属していた近鉄バファローズはもちろん、マスコミやファンの間にも「わがまま」「通用するわけがない」などの声が多数聞かれた。

ドラフト史上最多8球団からの1位指名を受けて近鉄に入団した野茂は、90年のデビューから18勝8敗の好成績を挙げて最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手四冠を独占。新人王とMVPを獲得し、パ・リーグ初の沢村賞にも輝く。以後93年まで4年連続で最多勝、最多奪三振を記録して、まさに日本のエースと呼ぶにふさわしい大投手となった。

しかし、その栄光の裏側では、野茂と球団の間で火種がくすぶり始めていた。93年に就任した監督の鈴木啓示は球団史を飾る名投手であったが、それゆえに独善的な面が強く、野茂のトルネード投法に対しても、四球が多いことを理由に否定的であった。

また、野茂が師事していた立花龍司トレーニングコーチの近代的指導法を拒絶し、退団に追い込んだ。鈴木としてはよかれと思ってのことであっても、とにかく野茂には受け入れ難いことが重なり、次第に「近鉄以外でのプレー」を思い描くようになっていった。

マスコミの手のひら返し

野茂自身、口数が多いほうではないため、「MLB挑戦に至った経緯」については周囲の証言や後年の検証に頼らざるを得ないが、当時のチームメートだった金村義明は、のちに著書の中で「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」との言葉を野茂の本音として紹介している。

つまり、まず近鉄を辞めたいという気持ちがあって、それからの選択肢としてMLB挑戦が浮かび上がったというわけだ。そして94年、シーズン途中に右肩を痛めて戦線離脱した頃から、メジャー移籍への下準備が始まる。

野茂の代理人となった団野村氏によると、野茂からの依頼でMLB移籍の実現に奔走したということだが、一方で「野茂が団氏にMLB挑戦をそそのかされた」とする説もある。

ともかく団氏は、当時の野球協約の中に「任意引退(クビ)になれば海外移籍も可能」と解釈可能な穴を見つけると、野茂に「契約更改時に過度の要求をして球団を怒らせ、任意引退になる」ことを指示。一方、そんな策略があるとも知らない球団側は、野茂の「代理人交渉」「6年20億円の複数年契約」などの要求に激怒して、まんまと任意引退を宣告してしまう(当時は、いずれも先例すらなかった)。

その結果、野茂のメジャー挑戦が決まったわけだが、そこに至るまでの契約交渉時の態度や、手玉に取られた格好の球団側からのリーク情報から、野球マスコミは野茂と代理人の団氏について、徹底的に批判することになった。

それでいて、いざ野茂がメジャーで活躍し始めると手のひら返しで褒めたたえるのだから、げに恐ろしきはマスコミの変わり身の早さであろう。

《文・脇本深八》

野茂英雄
PROFILE●1968年8月31日生まれ。大阪府出身。身長188センチ、体重99.8キロ。1990年に近鉄バファローズ入団。1995年に米国に渡りMLBで活躍する。2003年にMLB通算100勝、05年に日米通算200勝を達成。

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