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「ナベツネと料亭将棋」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part2~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和40(1965)年6月、第1次佐藤(栄作)内閣の改造に伴って、党3役の人事も動いた。田中角栄は前年11月、佐藤内閣の発足において、その前の池田(勇人)内閣からの大蔵大臣として留任していたものの、ここで蔵相から自民党幹事長にポストを替えた。男としても、最も脂の乗った47歳。蔵相、幹事長に就任したことで、近い将来の「天下取り」に確実な手応えを感じた時期でもあった。

佐藤首相がここで田中を幹事長に据えたのは、自らの政権最大の仕事として、米国からの「沖縄施政権返還」を見据えていたからで、ために、その日が来るまで政権の安定が不可避であった。田中は蔵相時代、国内経済が大混乱に陥りかねない「山一証券」の倒産危機に際し、「日銀特融」という荒技を使って沈静化させるなど、国会運営を任せるだけの腕力を備えていた。

田中にはどうしたものか、新しいポストに就くと、不思議に時の懸案事項と向き合うという宿命めいたものがあった。例えば、戦後初の30代で郵政大臣になったときは、至難のテレビ放送局の大量予備免許の割り当て問題があり、岸(信介)内閣での自民党副幹事長時代には、世の中が物情騒然となった日米新安保条約法案の成立、発効問題に直面し、国会運営で大汗をかき続け、結果、承認へと持っていった。

また、自民党政調会長となるや、それまでこじれにこじれていた日本医師会の保険医総辞退問題と対峙、ここでは「天皇」の異名をとった武見太郎会長らと会談して事態を収拾した。その後、蔵相としての「山一証券」問題の解決ということであった。

試練の「日韓国会」を元秘書・早坂氏が振り返る

さて、案の定と言うべきか、幹事長に就任したばかりの田中の前に立ちはだかったのは、「日韓条約」調印問題であった。

佐藤首相自身は、戦後未処理の日韓国交正常化を重要かつ緊急を要する案件と据え、この問題を扱う来るべき「日韓国会」は、政権の命運を左右しかねないとも考えていた。もとより、自民党内にも正常化を急ぐ必要なしの異論も多く、社会党など55年体制下の野党も強固に反対、こうした中で田中幹事長の腕力が問われることになった。

結果、自民党は質疑、審議を十分尽くしたとして、その年2月の衆参本会議でともに強行採決、日韓条約は関係3法案ともども成立することになった。

この「日韓国会」での田中の考え方、動きなどについて、のちに田中の秘書となった早坂茂三は、筆者にこう振り返ってくれたことがあった。

「あの国会のことを、私は後日、オヤジさん(田中)の口から聞いた。『日韓の国交正常化は国民の多くが支持していたし、日本としても解決しなければならない宿命的な問題が多々あった。佐藤首相のためでなく、政権政党としての責任を果たさないでどうするか。世界は国際的な経済協力の時代に入っている。社会党は〝第2次朝鮮戦争が起きたらどうするか〟などと言っているが、お互いが考え、努力すれば回避できる。日韓友好条約は〝お隣り同士は仲良くしましょう〟という善隣外交以外の何物でもないのだから』と」

「のちに、自民党内の条約反対派、社会党の幹部からも、『あのときの田中幹事長の裏での根回し、説得ぶりは真剣そのものだった。緩急自在、一歩も引かなかった』といった声を聞いている。オヤジさんの腕力がなかったら、あの国会での法案成立は難しかったと思われる」

しかし、法案は成立したものの、社会党をはじめとした野党は強行採決に態度を硬化し、国会は以後の審議ができない状態に陥った。結局、船田中、田中伊三次の衆議院正副議長が引責辞任することで、与野党が合意、国会はようやく正常化されることになった。

とにもかくにも、難局の「日韓国会」を乗り切ったことで、佐藤首相の〝直近目標〟である「沖縄施政権返還」問題に傷が付くことはなく、田中も佐藤の期待に応えた形となった。また、正副議長の辞任で、辛くも田中の首がつながった。

ナベツネ記者との料亭将棋

自民党本部の幹事長室長として田中幹事長を支え続けてきた奥島貞雄は、その著書『自民党幹事長室の30年』で、田中のこんな思い出話を記している。要約すると以下である。

――とにかく明るい田中は、それまで常に閉め切っていた幹事長室の扉を、開け放っておくよう命じた。ために、幹事長室には議員、官僚、誰もが出入りするようになり、さながらサロンのようなった。のちの「庶民宰相」と言われた原点は、ここにあったとも思われる。

一方で、にぎやかなことが大好きだから、盆と暮れの年2回、田中幹事長以下の党役員と自民党担当記者クラブのメンバーなどで、麻雀、囲碁、将棋大会を東京・向島の料亭やホテルでやっていた。表彰が終わると、決まって芸者が入っての100人規模の飲めや歌えの大宴会だ。

ある年の暮れは予算編成と「大会」がぶつかったが、田中と当時の読売新聞政治部記者のナベツネ(渡邉恒雄・現読売新聞社主筆)が座敷で将棋を指しており、すでに大物記者として通っていたナベツネが、党本部で記者会見をやろうとしていた政調副会長に対し、電話で「こっちに来てやってくれ」などと言っていた。政調副会長がしぶしぶ料亭に足を運んで来るなど、とても考えられないことが行われていたのである。

かく、まずはのどかな田中幹事長時代ということであったが、日韓条約法案の議決から1年近くが経った頃、今度は「黒い霧事件」という閣僚、自民党議員への〝同時多発〟スキャンダルが発生し、ついにここで田中は幹事長のイスを追われるはめになる。

(本文中敬称略/Part3に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。