大原麗子さん (C)週刊実話Web
大原麗子さん (C)週刊実話Web

大原麗子さん“孤独死”の謎「お嫁さんにしたい女優」ランキング1位の実像〜芸能人・非業の死⑧

昭和を代表する大女優・大原麗子さんが自宅で「腐乱死体」となって発見されたのは、2009年8月3日。62歳という若さだった。


東京都文京区にある老舗和菓子屋に生まれた大原さんは、10代で東映に入社すると、その類いまれな美貌と演技力を買われ、高倉健の『網走番外地』シリーズや梅宮辰夫の『夜の青春』シリーズなど、多くの映画に出演。


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1980年代には、サントリーレッドのCMで「すこし愛して ながーく愛して」というセリフで一世を風靡し、主演を務めた大河ドラマ『春日局』(89年)も歴代3位となる平均視聴率32・4%を記録するなど、世の男性を虜にした。


「好感度ランキングで14回も1位に輝き、お嫁さんにしたい女優ランキングでも長らくトップに君臨。〝良妻賢母〟〝理想の妻〟といったイメージをほしいままにしていましたね」(芸能記者)


しかし、彼女の私生活は、そうした印象とはかけ離れたものだった。

2度の離婚と2度の妊娠

大原さんは、73年に俳優の渡瀬恒彦と結婚。しかし、ともに多忙であった2人はすれ違いも多く、結婚後すぐに別居し、5年後の78年には離婚してしまう。

「その翌々年には、当時所属していた渡辺プロダクションのつながりで、演歌歌手として人気を確立していた森進一と再婚を果たします。実は、この2人の熱愛劇は、大原さんが渡瀬と離婚する前から関係を報じられていたものでした」(同・記者)


しかし、業界内で恋の成就はかなり難しいと言われていたという。


「当時の森は、慰留されていたにもかかわらず、79年に渡辺プロダクションから独立。同プロの看板女優だった大原さんとの結婚が認められるはずがないという意見が大方を占めていたんです」(同・記者)


結局、力業で結婚した2人だったが、わずか4年で破綻。84年の6月には、森と大原がそれぞれ単独で離婚会見を行ったことで話題を集めた。


会見で森は、「40歳になったら仕事をやめてくれると思っていたのに、『家のことをしているより台本を読んでいるほうがいい』と言われた」と大原さんを非難。一方、大原さんは「私のわがままでこうなった」と自分の責任を認め、「彼も男、私も男。家の中に男が2人いたんです」という名言を残している。


このように、家庭よりも仕事を優先する大原さんの姿勢は、渡瀬との間に身ごもった子どもを「子宮外妊娠」で流産してしまった過去も一つの要因になっていたとされる。


「のちに大原さんの弟が明かしたところによれば、森との間にも子どもを妊娠したものの、仕事を優先して堕胎をしていたそうです」(同・記者)


晩年は、手足に力が入らなくなるギランバレー症候群の再発や乳ガンなどの闘病で芸能活動を休止。整形手術の失敗にも悩まされ、表舞台から遠ざかっていた大原さんは、2008年に転倒して重傷を負い、翌年に自宅で「孤独死」しているところを発見された。死後2週間が経過していた大原さんの死因は「不整脈による脳内出血」。この「孤独死」について、デビュー当時からのマネジャーが口にした言葉が印象的だ。


「孤独に追い込まれたのではなく、自ら『孤高』を選んだ」のだと。


不世出の大スターらしい生き様を貫いた、まさに〝男〟だった。


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