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「新旧両面が同居」田中角栄の事件史外伝『史上最強幹事長―知られざる腕力と苦悩』Part1~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

自民党幹事長当時の田中角栄について、身近にいた2人が次のような証言を残している。

1人は自民党本部に勤め、幹事長室室長として30年間にわたり、田中角栄から加藤紘一まで歴代22人の幹事長に仕えた奥島貞雄。もう1人は、長く「二人三脚」で田中の政治活動を支えた秘書にして、愛人の立場でもあった佐藤昭子である。

奥島は、こう言っている。

「私が幹事長室室長として最初に仕えたのが、田中角栄その人だった。世間は田中を形容して、『浪花節的、せっかち、短気、勘がいい、政策に明るい、行動的、汗っかき、金権的、天才、勉強家、気さく、のみ込みが早い』などとしていたが、なるほど、どれも当たっている。私がこれを総称すると、『人間味に溢れた』ということになる。

その上で、田中こそ(22人の幹事長の中で)幹事長の中の幹事長、間違いなくのナンバーワンだったと思っている。田中の幹事長としてのスタイルを理想とし、仰ぎ真似ようと試みたのちの多くの幹事長は、誰一人として彼の域に達した者はいなかった。

そして、金権的などと言われていろいろな顔を見せる中で、早くから日本列島改造問題を考え、絶えず日本の将来を見据えていたのが印象的だった」(『自民党幹事長室の30年』中公文庫=要約)

田中の個人事務所の秘書だった佐藤女史は、のちに田中が病魔に倒れて事務所が閉鎖されたあと、その事務所と目と鼻の先に新たな個人事務所を設立した。それからまだ間がない頃に、筆者はインタビューを行ったが、そこで直接、幹事長時代の田中の横顔を聞き出している。

田中角栄にとって“幹事長”は水を得た魚

「長い間、田中の秘書として彼を見てきた私ですが、生涯の中で一番、生き生きしていた、水を得た魚のようだったのが幹事長時代でした。年齢的にも(注・就任時47歳)男としても脂が乗りきり、行動はすべて自信に満ちていた。私が、最も惹かれていた時代の田中です。

一方で、自民党幹事長職の多忙さは想像を絶していた。その前の大蔵大臣のときのほうが、私らもずっと楽でした。自民党の政策をすべてチェックし、すぐに党としての方針を出す。全国各地からの予算を含めた陳情は、知事、地方議員を中心に、田中事務所には朝から晩まで来ていた。他に自民党本部の幹事長室、目白の自宅での陳情もあったから、その数は凄まじいものだったと思う。それらを田中は、片っ端から裁いていました。

また、選挙になれば資金援助、票の依頼など、頼んできた自民党候補には誰にでも手を貸していた。その間にも次々と、各省庁の閣僚が政策の指示を仰ぎに来る。こうした中で、のちにつながる田中の圧倒的な人脈がつくられていったのです。

当時、かわいがっていたイッちゃん(小沢一郎・現立憲民主党)やリュウちゃん(橋本龍太郎元首相)あたりの有望な若手には、『いいか、おまえたちのような官僚出身でない政党人にとって、最高のポストは幹事長だと覚えておけ。政治家の醍醐味は総理になることじゃなく、幹事長になることだ』と言っていたのを覚えています」

昭和40(1965)年6月、第1次佐藤(栄作)内閣の改造で田中は、大蔵大臣を辞任し、変わって幹事長ポストに就いた。以後、幹事長職を5期、延べ4年1カ月の長きにわたって務めることになる。

それは同時に、佐藤派の幹部として、7年8カ月に及ぶ長期政権の安定をひとえに支え続け、田中が時に1人で泥をかぶり、陰に陽に佐藤のスムーズな政局運営に寄与したということであった。

かつて田中は、大蔵大臣となる前年の昭和36年7月、第2次池田(勇人)内閣で執行部三役の政調会長のイスに座った。そのときの幹事長は前尾繁三郎、総務会長は赤城宗徳だったが、世間からは「軽量三役」との声が飛んでいた。

しかし、佐藤内閣の改造で田中角栄幹事長、前尾繁三郎総務会長、赤城宗徳政調会長と、奇しくも4年前と同じ顔ぶれのトリオとなったときは、世間も一変、今度は「実力者体制」との評価を与えたのだった。

新旧両面が同居している奇妙な魅力の田中角栄

当時の朝日新聞は、田中幹事長の誕生とその横顔をこう伝えている。

「佐藤首相が『私の片腕』と呼び、『幹事長は総裁派閥から』ということであれば、これは当然の人事。『軽量三役』と呼ばれてから3年を経た今日、重厚と言われないまでも、もはや軽量と評する者はいない。

決断の速さ、読みの深さ、政財界人への顔の広さの3つに裏打ちされた実行力があると、褒める人は言う。決断の速さは予算折衝での手際のよさ、読みの深さは池田内閣に佐藤派が協力、そのあと佐藤内閣へという手順を誤らず、その立役者だったことでも分かる。ただ、時に行動力がたたっての、勇み足の心配がないわけではない。

〝腹〟と策略を重んじるのが保守党旧派であるとすれば、政策と実行を軽視しない新しい感覚もある。が、若いときから鼻下にヒゲ、浪花節をうなり、将棋を指し、ゴルフはダメと、新旧両面が同居している奇妙な魅力を醸し出す。

いつも陽の当たる場にいるので、佐藤派の中でも風当たりがやや強くなっているが、ちょっとやそっとでへこたれぬ芯の強さを持っている」(昭和40年6月2日夕刊)

なるほど、田中幹事長の腕力ぶりに、いやが上にも〝風当たり〟は強まるのだった。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。