ジャイアント馬場「シューティングを超えたものがプロレスだよ」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

80年代のプロレスファン、特に新日本プロレスのファンは、「ジャイアント馬場なんて弱い」「16文キックはインチキ」などと思っていた人が大半だった。しかし、それはアントニオ猪木の〝口撃〟によってミスリードされたイメージなのかもしれない。

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ジャイアント馬場が社長だった頃の全日本プロレスの記者会見は、新人記者にとって一つの試練であった。

馬場の慎重居士ぶりがその理由で、会見場に知らない顔を見つけるとそれだけで口数が少なくなり、変な質問などしようものなら、あからさまに無視されてしまう。普通の質疑応答ができるようになるまでには、相当な場数を踏むことが求められたという。

しかも、馬場は基本的に「当たり前」のことしか言わないから、記事にするのも大変である。馬場の名言として今に伝わるものはいくつもあるが、テレビ解説などで映像が残っているもの以外は、そのほとんどが「気心の知れた周囲の人間による創作」である可能性が高い。

もっとも創作とはいえ、メディアに無断で発表することなどは許されるべくもない。馬場本人ではなくとも、うるさ型の元子夫人なり、古参スタッフなりがしっかりと検閲しているのだから、実際にその発言があったか否かはともかくとして、馬場の本心に近いものであったはずだ。

プロレスこそが格闘技の集大成

そんな馬場の名言の中でも、特筆すべきものとして「シューティングを超えたものがプロレスだよ」がある。

他団体に対しては、基本的に「我関せず」の態度をとることの多い馬場にしては珍しい発言で、このインタビューを掲載した『週刊プロレス』の記事では大見出しにもなっている。

第2次UWFやPRIDEなどの総合格闘技が人気を博した際に、たびたび引用された言葉ではあるが、初出は1985年、このときシューティングと言ったのは第1次UWFのことだった。

当時、UWF(特に同団体に参戦して理論面を主導した佐山聡)は、相手を潰すガチンコ的な意味合いの言葉として、プロレス界の隠語「シューティング」を堂々とキャッチフレーズにしていた。

対して馬場は、「UWFの選手はシューティングがプロレスを超えたものだと思っているのだろう。俺はシューティングを超えたものがプロレスなんだと思うんだよ」と言及し、それらも含めたあらゆる格闘技の集大成がプロレスなのだと結んでいる。

この発言をスキャンダラスなものとして捉える向きもあり、「馬場は総合格闘技よりも、プロレスのほうが上だと語った」という解釈をされることもある。しかし、発言の時期からしても、馬場にそこまでの意識があったとは考えづらい。

この頃の全日には、同年1月から長州力率いるジャパンプロレス勢が参戦しており、3月には全米で話題のザ・ロード・ウォリアーズが初来日するという上昇気流のさなかにあった。ゆえに第1次UWFなどは、ほとんど馬場の視界に入っていなかったに違いない。

つまり、馬場からしてみれば、軽い気持ちで自分なりの「シューティング」に対する解釈を口にしたにすぎず、それを編集サイドがタイムリーな話題として取り上げたというのが真相ではなかったか。

インタビュアーの質問自体も「プロレスとシュートはどちらが上か」というような趣旨ではなく、「(UWFのキャッチフレーズに対して)一部から批判もあるようです」と、隠語を使ったこと自体を問題視していたように見受けられる。

そもそも、馬場がアメリカ遠征していた60年代は、トップレスラーたちにとってシューティングは「できて当然」のものだった。

全米を席巻した“東洋の大巨人”

跳ね返りの若手やローカル王者らが、「隙あらば大物食いをしてやろう」と向かってきた際、シュートの技術でギュッと締め上げる。そうした実力がないことには、大看板を背負って全米マットを渡り歩くことなどできない時代だったのだ。

馬場にしてもこれは同じだった。まだ太平洋戦争の傷痕が残るこの頃、「憎きジャップの大男など懲らしめてやる」といった輩は少なからずいたはずで、そうした相手をしっかりと倒してきたからこそ、ヒールとして全米マットに君臨することができたのだ。

そんな馬場からすれば、「たかがシュートぐらいで青二才が何を威張っているのだ」というのが、当時の本音であったろう。

なんといっても読売巨人軍で、一軍のマウンドにまで登った選手なのである。まだ「職業野球」と称された時代で、昨今ほどの高いレベルではなかったかもしれないが、それでも馬場がトップアスリートの一角にいたことには違いない。

アントニオ猪木の執拗な〝口撃〟もあって、その実力は低く見積もられがちだが、80年代あたりの馬場のイメージで、その全体像を語るのは早計だろう。

やはり60年代のアメリカで、トップを張った実績と実力を舐めてもらっては困るのである。

《文・脇本深八》