ハルクホーガン (C)週刊実話Web
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ハルク・ホーガン「イチバァーン!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

プロレス史上で最も有名なレスラーは誰かといったときに、ハルク・ホーガンの名前を挙げる人は多いだろう。現在、WWEが世界最大のスポーツ・エンターテインメントとして多くの人々を魅了しているのも、その基礎をホーガンが作り上げたからである。


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世界的なスーパースターとして名を馳せたハルク・ホーガン。


日本のファンやマスコミからは「新日本プロレスでの経験によって成長した」との声も聞かれるが、しかし、これは一面的な見方だろう。


1980年の初来日当時、巨体のわりにはスピーディーな動きを見せたホーガンだったが、ファイトスタイルは典型的なアメリカン・パワーファイターそのものだった。それがアントニオ猪木とのタッグなどを経て、グラウンド技を取り入れるようになり、試合の組み立てや観客へのアピールが上達していったことは確かな事実である。


しかし、そもそもホーガンは、来日前からハーリー・レイスのNWA世界王座に何度も挑戦しており、WWF(現WWE)では破竹の連勝を果たして「MSGの奇跡」と評されていた。


また、大ブレークのきっかけとなった出演作、映画『ロッキー3』が公開されたのは1982年なので、その前年か前々年には出演オファーがあったに違いない。つまり、アメリカにおいては日本より早く、そのスター性が周知されていたのだ。


とはいえ、ホーガンが弟子入りしたかったという70年代のスター選手、スーパースター・ビリー・グラハムが日本でさほど人気を得られなかったのに対し、ホーガンはこれとほぼ同じスタイルだったにもかかわらず、来日するごとに人気を増していった。

日本風の発音で「アックスボンバー!」

では、グラハムとホーガンのどこが違ったかといえば、やはり「持って生まれたスター性」ということになるだろう。これに加えて「サービス精神の旺盛さ」も成功の秘訣だったと思われる。


新日参戦によって、明らかにプロレスが上達したホーガンだが、アメリカでの試合ぶりは基本的に来日前と変わらなかった。つまり、ホーガンは日本とアメリカで、それぞれの観客の嗜好に合わせた試合をしていたのだ。


こうした姿勢は世界的スターとなった後も変わらず、90年の『日米レスリングサミット』でのスタン・ハンセン戦や、翌91年のSWSにおける天龍源一郎らとの戦いでも、ホーガンはアメリカ風の大味な試合ではなく、見かけだけの派手さを排除した日本人好みの試合を披露したものだった。


ホーガンのサービス精神を示す逸話としては、必殺技「アックスボンバー」の例が挙げられよう。


本来、「AXE BOMBER」は英語の発音だと「エァックス・ボォマァ」といった感じになるのだが、ホーガンはこの技を繰り出す際、日本のファンにも分かりやすいように「アックスボンバー!」と、日本風の発音で叫んでいたのだ。


そして、そもそも技自体、ハンセンが全日本プロレスに移籍したことにより、ウエスタン・ラリアットの代用品として急造されたものである。


このように外国人選手のトップクラスが、団体の要望を受けて他選手の得意技を真似るだけでなく、わざわざ日本なまりで技名を叫ぶことなど、普通ならプライドが邪魔をしてできないものだろう。

一世を風靡した「一番Tシャツ」

右手の人さし指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも、もちろん日本の観客向けに始めたものである。日本語をしゃべることを嫌う外国人選手も多そうだが、当時のホーガンはポーズだけでなく、コスチュームも「一番」と染め抜かれたタイツやTシャツでそろえていた。


ちなみに、この「一番Tシャツ」は売れ行きも相当なものだったようで、はっきりとした記録は残っていないが、いまだに外国人向けのお土産ショップなどに置かれている。


90年代に一世を風靡したnWoも、これを立ち上げたのはWCW時代のホーガンなので、ホーガンは二度にわたって日本に、関連グッズで〝カネの雨を降らせた〟ことになる。


後年、ホーガンは歌手活動をしている娘のブルックに、次のようなことを語ったという。


「いい曲を書いてヒットしたからといって、ただ喜ぶのではなく、次にもっといい曲を書こうと努力することが大事だ。それはプロレスと同じことなんだ」


一つの成功を後生大事にするのではなく、常にアップデートした新しいスタイルを提供していく――。


このようなエンターテインメント精神があったからこそ、ホーガンは歴代プロレスラーの中でもダントツのスーパースターとして、長年にわたり活躍することができたのだろう。