島田洋七 (C)週刊実話Web
島田洋七 (C)週刊実話Web

佐賀のがばいばあちゃん誕生秘話~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

前回、新型コロナウイルスが流行するまでは講演会での活動が主だったと書きました。講演会を始めた当時も、たけしとはよく寿司屋へ飲みに行ったり、飯を食ったりしていたんです。


ある時、「洋七は最近よく講演会をやっているけど、何を喋ってるんだよ?」と聞かれましてね。


【関連】講演会で大ウケした芸能界の裏話~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』ほか

「ばあちゃんや子供のころの貧乏話をしている」と答えると、「それ面白いな。泣いて、笑って、喜んで、で。芸人ならいっそのこと本にしろ」とアドバイスされました。


それから出版社に持ち込んだんですが、なかなか相手にされなかった。遠回しに漫才ブームで人気絶頂の時なら、といった反応でした。そこで3000冊を自主出版したんです。たけしに「タイトルは何がいいかな?」と相談すると、『振り向けば悲しくもなく』とつけてくれた。文学的だなと思いましたよ。


3000冊の自主出版の本を売るのは本当に苦労しましたね。講演会の度に会場でコツコツと手売りしていたんですけど、マネジャーも1回に20~30冊しか持っていけないし、いくら講演会に来てくれるお客さんに手売りでサインしても毎回10冊程度しか売れない。帰りの新幹線の時間もあるから、本を売る時間を割けないんですよ。結局、3000冊を売り切るのに1年半か2年くらいかかったと思いますね。


数年後、俺が吉本興業に戻ったころに、たけしが「あの本をまた出せ」と言うんです。「また講演会の度に手売りするのはしんどい。前回も全部売るのは大変やった」と渋っても、「絶対に面白いから」と言い張る。そこで、俺は佐賀の同級生だけに売ろうと思い、内容はそのままにタイトルを『佐賀のがばいばあちゃん』に変更しました。

「この本を全国で売りましょう!」

同時に、もう一度いろんな出版社に持ち込んだんですけど、本が段々と売れなくなった時代でどの出版社も取り合ってくれない。でも、ある〝強面〟の出版関係者を通じて徳間書店を紹介してもらいました。担当編集者は本を預かると、「検討して数週間後にお返事します」。すると1時間半後に電話が…。なんと先程の編集者でした。

「この本を全国で売りましょう!」。あまりにも早い返事だったので、「あんたホンマに全部読みましたか?」と訝しがると、「読みましたよ。平仮名だらけですから、すぐに読めましたよ。物凄く面白いですね」。それからは全国の書店に並ぶようになりましたが、これがなかなか売れなかったんです。


当時は、なんばグランド花月で月に一度、1週間の出番があったんです。1日2公演なので1週間で14公演。俺らの出番が終わり、新喜劇が終了すると、お客さんの出入り口にあるロビーに机を並べて売っていました。舞台で大爆笑をとっていた芸人が、握手とサインをしてくれるということでどんどん買ってくれました。1年半くらい手売りで2万冊は売りましたね。


その後、徐々に話題になり、『佐賀のがばいばあちゃん』は韓国版や台湾版も出版され、累計発行部数が1000万部を超えました。映画やテレビドラマ、舞台などにもなった。これが『佐賀のがばいばあちゃん』のヒットの裏側です。まさかここまで売れるとは思いませんでしたけどね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。