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講演会で大ウケした芸能界の裏話〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

新型コロナが流行する前まで、俺の活動は日本各地での講演会が主だったんです。中高年以上の方々をお客さんに迎えてね。でも、このご時世でしょ。講演会の仕事は激減しましたね。

漫才師の俺が講演会を始めたのは、ある人から誘われたからなんです。

1990年からTBSラジオで『それゆけ洋七元気丸!』という平日昼のワイド番組のパーソナリティーを務めていた。月曜から金曜まで毎日3時間、さまざまなコーナーがある中で週に1回、作家で評論家の塩田丸男さんのコーナーがありました。

ある日、「先生はこの後、どこへ行くんですか?」と尋ねたら「群馬の前橋の商工会議所で講演です」。俺は講演会なんて知らなかったから「講演って何をしますの?」と聞き返すと、「100人くらい集まって、その前で経済やら何やらの話をするんだよ」と。

翌週、番組が終わると塩田さんに「この前、前橋へ行く途中に考えたんだけど、講演会は大学の教授やお医者さんなどの文化人が出演することがほとんどだから、笑いが起きる講演会は少ない。洋七さんはそれだけ喋れるんだから講演会に出演してみたらどうかな」と勧められたんです。しかも、俺は早口だから「1時間15分もあれば、他の人の倍は喋る」と。物は試しに1回出てみようかなとなり、塩田さんが紹介してくれた。

2カ月後、千葉県船橋市の商工会議所に呼ばれて、初めて講演会をしたんですよ。講演会は文化人が多く、芸能人が来ることなんてないから会場は普段の倍くらいのお客さんで埋まっていた。そこで芸能界の裏話を喋ったらウケましたね。俺は漫才師ですし、ひとり喋りが得意だから余計にウケたんでしょう。

会場でウケた“ばあちゃん”の話

それから何日かすると、講演の依頼が各地の商工会から来たんです。商工会は全国でつながっていて、船橋での講演会の評判を聞きつけたみたいです。でも、ラジオの仕事があるから土曜しか出演できない。初めは月に2、3回でしたが、10カ所くらい講演会をすると、芸能界の裏話を喋るのに俺自身が飽きてしまったんですよ。そこで1時間喋って、残りの時間を質問コーナーにしたんです。

すると、「洋七さんは広島県出身ですよね?」という質問があった。俺は「広島県出身ですけど、小学校から中学校までは佐賀のばあちゃんの家に預けられていたんです。田舎だったから、川で拾ってきた物を食べてましたよ」と話すと会場は爆笑でしたね。

それまでテレビでも、ばあちゃんに育てられたことや貧しかった子供の頃の話はしたことがなかったんです。若い時は、そういうのが恥ずかしかったからね。次の人も「おばあさんはどんな人だったんですか?」と質問する。

「腰に紐を巻いて、その先に磁石をつけていつもガラガラさせながら歩いてましたね。田舎の道路は昔はまだ舗装されていなかったから、釘なんかがくっついているんですよ」

そうしたらまたも大ウケ。子供の頃の貧乏話がこんなにウケるとは思いもしなかったので驚きましたよ。

そうこうしているうちに、講演会活動を本格的に始めた。コロナ前までで、合計4700~4800回は講演会を開きましたね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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