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「生活デモクラシー」田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』Part9~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

最強の政治家後援会組織として久しく栄華を誇った「越山会」ではあったが、組織拡大は決して上昇カーブ一途の歴史ではなかった。

最も響いたのは、田中角栄が結局は無罪を勝ち取ったものの、「炭管事件」の際に収賄罪で逮捕されたことであった。東京拘置所に収監された田中は、「獄中立候補」という奇手でかろうじて2回目の当選を果たしたが、中央政界ではしばらく〝冷や飯〟を食わされた。これといったポストに就けず、それに伴って越山会への入会希望者も、鈍化を余儀なくされたのである。

どんな組織であれ、いかに優れたリーダーでもひとたび大きな失敗を犯せば、それ見よとばかり、周囲がクモの子を散らすように離れていくのが世の常である。しかし、これで潰れてしまうリーダーが多い一方で、逆にバネにして再び立ち上がり、ファイティング・ポーズを取る者も少なからず存在する。田中は、まさしく後者であった。

しかし、2回目の当選を果たした後の政界でのポストは、衆院建設委員会の地方総合開発小委員長、衆院商工委員長、4回目の当選後の自民党副幹事長といった具合で、この時期は思ったポストに就けなかった田中にとって、まさに「無聊の時代」と言ってよかった。

地元から“使える男”と認めてもらうために!

ここでの田中の凄さは、そうした時代を逆に活かしたことである。むしろ「雌伏の時代」と捉えており、決して惰眠をむさぼってはいなかった。

この間、田中がやっていたことは、地元新潟からの徹底した陳情処理、炭管事件に絡んで左前になってしまった自らの事業「田中土建工業」の再建などであったが、特筆すべき点が2つあった。

まずは当時の選挙区〈新潟3区〉内の三島郡を縦貫していた私鉄「長岡鉄道」の社長に就任したこと、もう1つは敗戦で荒廃しきったこの国のインフラを再建するため、次々と道路、住宅など、議員立法の成立に全力を傾注したことである。

長岡鉄道については、とくに〝辺境の地〟の住民の足でもあったが、経営が苦しく、存続か廃線かの岐路に立たされていた。路線住民はもとより、廃線には絶対反対、陳情を繰り返しており、結局、田中がこの赤字路線の社長を引き受けることにしたのだった。

社長就任のあいさつで、田中は言った。

「三島郡のためにどうしても存続、そして電化をしなければならない。難点は融資だが、自信はある」

社長を引き受けた際、田中の父親・角次は言っていた。

「あんな赤字会社の社長を引き受けるなんてバカだ」

その後、紆余曲折はあったが、昭和26(1951)年12月、突貫工事の末、長岡鉄道にそれまでの石炭列車から電化された一番列車が走った。沿線の住民は大喜びで、商店街は大売り出し、のど自慢大会を催して祝ったという。

同時に、これで住民は田中を「使える男」として熱烈支持、その後の越山会発足では大挙して会員になるといった具合だった。

その後の昭和35年10月、田中はこの長岡鉄道を軸に、中越自動車、栃尾電鉄を合併させ、〈新潟3区〉全体をカバーする現在の「越後交通」に商号変更。のちに田中が首相になったのを機に、この越後交通は鉄道路線を廃止し、すべてバス路線に切り替え、〈新潟3区〉内の住民の足として今日に至っている。

こうして田中は、事業として利益を上げる一方、利便を得た住民の田中支持がいよいよ盤石となったことで、双方の「現世利益」が見事に一致、越山会のさらなる隆盛に弾みをつけたのである。

そして、一方の議員立法である。秘書だった早坂茂三(のちに政治評論家)は、田中の「無名時代の10年」と題する論文をまとめて、「ここに、のちの田中政治の原点がある」とした。

なるほど、昭和24年1月の総選挙のあとから、田中が提案者となった33本に及ぶ議員立法は、次の日本を形づくるものであった、国土総合開発法に始まり、河川法改正、公営住宅法、住宅金融公庫法改正、電源開発促進法などだったが、極め付けは、その後に推進した道路法など「道路三法」であった。

田中の国づくりは「生活デモクラシー」そのもの

戦後、復興にはまず道路整備が不可欠であった。この道路三法の制定により、自動車が急増、経済にも飛躍的な貢献をした。そして、こうした国の再建は、のちに〝最後の仕上げ〟である全国の鉄道整備として、新幹線計画にたどり着くのであった。

こうして田中が尽力してきた国づくりを、先の早坂秘書は「生活デモクラシーそのもの」としていた。時に、こうした一連の議員立法が、圧倒的に田中30代の仕事だったから、舌を巻かざるを得ないのである。

その田中が、「無聊の時代」からようやく抜け出すことができたのは、戦後初の30代(39歳)で郵政大臣となった昭和32年であり、以後、自民党政調会長、大蔵大臣、自民党幹事長と、出世の階段を一気に駆け上がることになる。

「無聊の時代」に足踏みした越山会の会員数は、田中が昭和36年に政調会長に就任する前までは2万5000人ほどだったが、政調会長就任から急カーブで増え、最終的には10万人に近い不動の組織となっていた。

昭和60年2月、田中は脳梗塞に倒れ、事実上、ここで政治生命を閉じた。その後、娘の田中真紀子(元外相)が越山会の組織に乗り込み、田中の跡を継いだ。しかし、平成5年12月16日の田中逝去とともに、越山会組織は衰退一途となり、今日、その真紀子も政界を引退して、越山会としての活動は消滅している。

まさに、槿花一朝の夢。田中が一代で築き上げた最強の後援会も、やはり一代で幕を降ろすことになった。栄華が散るのは、世の常である。

(本文中敬称略/次回からは「史上ナンバーワン幹事長――知られざる腕力と苦悩」となります)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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