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西川きよし師匠に教わった親の有り難さ〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七 (C)週刊実話Web

前回、〝やすきよ〟(横山やすし・西川きよし)さんの西川きよし師匠に寿司屋へ初めて連れて行ってもらい、それ以来、寿司屋が好きになった話をしましたけど、きよし師匠には色々とお世話になりました。そもそも、俺はやすきよさんの漫才や笑福亭仁鶴師匠の落語を『なんばグランド花月』で見て、漫才師になりましたからね。

まだ若手の頃、うちのお袋がなんばグランド花月に見に来たことがあったんです。B&Bの出番が終わり、楽屋の出入り口で「着替えて戻って来るから、待っといて」とお袋に言い残した。それをたまたま見ていたきよし師匠に「今のおばさんは誰や?」と問われたんで「お袋が広島から出て来たんです」と答えると、「着替えたら楽屋へ来い」と言われました。楽屋へ行くと、「お母さんにおいしいものを食べさせや」と1万円を手渡されました。もちろん、頂いたお金でお袋と食事に行きましたよ。

きよし師匠は昔から「親孝行せえよ」が口癖でした。

「漫才で売れて一番喜ぶのは親やねん。ファンはちょっとでも売れなくなったり、何かが起きたら離れていくやろ。親は離れへん。売れない時も応援してくれるし、売れても応援してくれる。売れなくなっても応援してくれるのは親だけやで。だから親孝行しいや。辛い時や嫌なことがあった時にはすぐに親に電話するなりして、会いに行け。親の顔を見ていたら、もう一度頑張ろうと思うやろ」

「やってることが反対やぞ」

お袋が劇場に見に来てから数カ月後、俺の髪の毛が伸びていたんですよ。それを見たきよし師匠から「洋七くん、髪長いな。散髪へ行け」と促されたんです。やすきよさんは、2人ともいつも髪の毛をビシッとキメていたでしょ。きよし師匠は七三分け、やすし師匠も同じくいつもきちっとしていた。だから長い髪が好きじゃなかったんだと思いますね。

きよし師匠には「ギャラが出たら散髪へ行きます」と返事を濁したら「金がないんか?」と切り返されたので、「はい」と答えました。すると、きよし師匠は横山やすしさんがよく利用していた花月近くの散髪屋へ「行って切ってきなさい」と、5000円を出してくれましてね。

当時、花月からその散髪屋さんへ行く道には立ち飲み屋があったんです。劇場の出番が終わって、そこで1杯飲んでから髪を切りに行こうと思ったんですよ。当時、散髪代が2000円くらいだったから、3000円は余るでしょ。それで立ち飲み屋へ入ろうとしたところ、後ろから髪の毛を引っ張られましてね。振り返ると、きよし師匠でした。お弟子さんの運転する車に乗るために、たまたま後ろを歩いていたようです。笑ってましたわ。

「まず散髪へ行かんかい。残った金で酒を飲め。飲みすぎて、散髪代が足りなくなったらどないするねん。やってることが反対やぞ」と叱られましたね。

つい4、5年前にきよし師匠に会った時も、その話が出ましたね。お互い、いまだに覚えているんです。

お袋のこともよく覚えてくださっていて、会う度に「親孝行しいや」と諭してくれます。きよし師匠は「親孝行」という言葉が本当に好きな人ですよ。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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