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仁鶴師匠からもらった2枚の色紙~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

俺は嫁と家出して大阪へ行ったんです。当時、先輩から「大阪の名物といえば花月や」と教えられ吉本興業が運営する『なんばグランド花月』に足を運んだんです。それまで寄席という言葉すら知らなくて、初めて落語や漫才を間近で見たんです。その時、舞台に出演していたのが昨年8月に亡くなった笑福亭仁鶴師匠でした。俺にとって仁鶴師匠は特別な存在なんです。

俺が初めて見た時は休日だったから、仁鶴師匠は古典落語ではなく、子どもでも分かるような漫談に近い話をしていましたね。以来、大ファンになりました。

漫才ブームで東京に進出した俺らは、東京でレギュラー番組の司会を務めることになった。スタッフから「関西の芸人さんでレギュラーとして呼びたい方はいますか?」と尋ねられ、「俺が言ったとはバラさないでほしいんですけど、仁鶴師匠」とお願いしたことがあったんです。そうしたら引き受けてくれて、収録初日、師匠の楽屋前で待っていると「君が呼んだんやろ」とバレバレでしたね。

仁鶴師匠は、ものすごく芸事に真面目な方でしたから、若手を連れて飲みに行くようなこともほとんどなかった。でも、一度だけ中田カウス・ボタンのカウスさんと3人でクラブへ飲みに行ったことがあるんです。

「仁鶴師匠に誘われたから行こう。お前、ファンやろ」とカウスさんに声を掛けられついて行きました。店に入ると、仁鶴師匠はネタの作り方はどうしているとかなど芸の話ばかりで、女の子とほとんど話さない。結局、1時間くらいしたら会計して帰りましたね。

訃報の際は色紙の前で1時間泣いた…

仁鶴師匠の大ファンだった俺は、吉本興業を辞める2年前、今から17年ほど前に、仁鶴師匠にどうしてもサインをもらおうと思い立ったんです。色紙を2枚とマジックペンを用意して、劇場のエレベーター乗り場で待ち構えていました。

エレベーターから降りてきた師匠は、色紙を見るなり「君は何を持ってるねん。誰かのファンか?」。「師匠にサインをもらいたいんです」と懇願すると「君のほうが売れているやん。芸人にそんな言われると、照れるな」とためらっていましたが、色紙を持って帰って頂いたんです。

1週間後、師匠に呼ばれて楽屋へ行くと、2枚の色紙に言葉が書いてあった。1枚は「見てござる」。師匠は「お客さんは舞台の俺らを見ているやろ。お客さんが1000人だろうが、3人だろうが、命懸けで芸をせなあかん」と言葉の意味を説明してくれました。

もう1枚は「雑談 嘘話」。要するに、落語も漫才も雑談で、なおかつ全部嘘の話だろということを意味していたんですよ。その嘘の程度で面白いか、面白くないかが決まるわけです。以来、自宅に2枚の色紙を飾っています。

昨年、師匠の訃報を聞いた際は色紙の前で1時間、泣きましたわ。師匠の一番弟子で上方落語協会会長の笑福亭仁智とは、昔から仲が良いので電話したんです。偲ぶ会などがあるかどうかを聞こうと思ってね。その時に、仁鶴師匠にサインをもらった話をしたら、「俺でも持ってないのにすごいな」と仁智は驚いてました。

俺も芸人にサインをもらったのは、後にも先にも仁鶴師匠だけです。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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