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「現世利益」田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』Part8~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

最強の政治家個人後援会組織と言われた「越山会」が成り立ったのは、何にも増して会員たちの「盟主」田中角栄に対する理屈抜きの信頼感にほかならなかった。例えば、ビジネスを含めたあらゆる強固な組織というものは、この一般社員などのトップに対する信頼感が極めて強いのが特色だ。ダメなリーダーの指揮のもとでは、皆が結束して社としての戦略につなげ、業績を上げていくということは、なかなか難しいのである。

一方、越山会が田中というリーダーシップ豊かな人物ありきで成り立っていた反面、越後新潟という風土に恵まれなかった土地柄が、その成り立ちに大きく作用した側面があった。ために、越後新潟の住民の圧倒的多くが苦境からの脱却を目指し、田中は田中で政治家としての「上」を目指すためには地元の強力な支持が不可欠と、公共投資など巨大な利益を地元に投下したのだった。地元民と田中の間には、完璧な「現世利益」の〝密約〟が成立していたということである。ビジネス社会でもまた、リーダーと部下のこの「現世利益」を共有できる組織は、競争に打ち勝つ底力を持つ。

そうした「現世利益」とは、田中の言葉を借りれば次のようになる。笑いと迫力、抜群の説得力を持つ2つの「角栄節」を引用し、そのあたりを見てみることにする。

「新潟には雪がある。雪は資源、みなさんの財産」

「みなさんッ。昭和60(1985)年になると、いまトンあたり60円の水が100円以上になるんです。東京では、400円くれェになるのではないですか。三越デパートの岡田茂社長は私の友人だが、この岡田君が『デパートでは、お客の1割が物を買ってくれればいいんだ』と言っておった。ところが、『この頃はどうも困った』と言うんだ。岡田君に聞くと、『1万人の女性がデパートに入って、1000人は買い物をしても残る9000人は化粧室に入りに来る』と言うんだナ。『水道代など1人あたり25円も損をしてしまう。9000人に同じことをされたら、儲けなんかふっ飛んでしまう』とこぼしておった(爆笑)。

みなさんね、笑っておってはダメですよ。いや、笑いの中に真実があるッ。いいですか。新潟には雪がある。雪は水だ! 私の言いたいのはそこだ。水は生活の基本だ。雪は資源、いやみなさんの財産ということなんだッ」(昭和55年3月、越山会総決起大会にて)

ここでは、雪、すなわち水をもって越後新潟の生活向上につなげてみせるとの意気込みをうかがわせている。「現世利益」供与の〝風呂敷〟は、さらに次のような話にもなっている。

「田中は政治家でなく、土方だと言われる。何をぬかすかだッ。でも、こう言われると、ここ(新潟)の人は怒るわねェ。そうでしょ、みなさん!(拍手)。田中は入広瀬の村長と組んで、ここばかり公共投資するとも言われた。何をほざくかッ。まァ、こう言いたいよなァ。当たり前のことだ。東京には水がない。その水をこっちがくれてやっている。そういうところに公共投資を持って来て、何が悪いッ(大拍手)。

みなさんッ。まァねェ、この100年は太平洋側の100年だった。しかし、これからの100年は日本海側の100年です。どんどん生活はよくなる。私は、新潟に20カ所のダムを持って来ているんだ。なぜだか、分かりますか。関東が水不足になるからであります。しかし、こっちには水があるわねェ。雪は水なり、水は力なのであります。

東京の大企業は、これからどんどんやって来る。また、出稼ぎもなくなります。それが国道17号線であり、高速道路であり、上越新幹線なのであります。もっとも新幹線ができると、この辺の土地は値上がりするわねェ。そのときはみなさんッ、あんまり土地で儲けちゃいかんよ(大爆笑)」(昭和51年12月、総選挙の立合演説会にて)

一方で、この演説で田中は「出稼ぎもなくなる」との自信を示している。

例えば、長岡市に古くは「辺境の地」と言われた山古志という地域がある。平成16年の「中越地震」で壊滅的な被害を受けたが、もともとは錦鯉の養殖と闘牛で知られ、一方で、住民の大半は農業と〝副業〟で生計を保っていた。ここで言う〝副業〟とは、「出稼ぎ」を意味している。

激減した山古志村の「出稼ぎ」

主な出稼ぎは、男なら毎年10月末、新潟県内はもとより、近県の群馬、栃木、埼玉などへの酒造りの手伝いに出て、翌年4月末までの約半年間、郷里へ帰ることができなかった。また、女の多くは愛知、岐阜、大阪などの紡績工場に女工として出て、帰るのは正月休みといった具合だった。男は正月休みさえ取れず、豪雪に埋もれた屋根の下で、家族は母と子どもだけの寂しい正月をすごすのである。

そうした中で、田中はこの「辺境の地」に道路を付け、これにより住民の生活は格段によくなっていった。その頃の山古志村役場の統計によれば、昭和30年代に1000人近くあった出稼ぎ人口は、40年代に入るとおよそ半数になり、田中が付けた道路がやがて国道352号線に昇格した昭和56年には、じつに120人と激減したのだった。

一方で、出稼ぎの減少と踵を接するように、田中の山古志村での得票率も増え、昭和30年代に30%程度だったそれが、40年代にはなんと60%台にまで上昇していた。出稼ぎの減少とともに、ここでも越山会会員の田中支持が急増していったのだった。

「現世利益」で手を握った田中と苦境の住民たちの信頼感が、さらに強固な最強組織を形づくった越山会だったのである。

(本文中敬称略/Part9続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。