前田日明 (C)週刊実話Web
前田日明 (C)週刊実話Web

前田日明「UWFの前に常勝チャンピオンなどあり得ない!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

前田日明とアントニオ猪木のシングルマッチは、1983年の『第1回IWGP決勝リーグ戦』で、猪木が延髄斬りからフォール勝ちした1戦のみ。


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前田がUWFで本格化して以降の対戦は、多くのファンに待ち望まれながらも実現することはなかった。


前田日明らがUWF軍として新日本プロレスに参戦していた際、「アントニオ猪木が前田との対戦を避けた」というのは、いまだによく言われることではある。しかし、実際のところはどうだったのか。


U軍が業務提携という形で新日復帰を果たしたのは、86年1月のこと。前年10月には新日とWWFとの提携が解消され、12月にはブルーザー・ブロディのIWGPタッグ戦ボイコット問題が勃発したことから、新日がU軍に大きな期待をしていたことは容易に想像できる。


ただ、U軍で長期のビジネスを展開するためには、いきなり頂上決戦を持ってくるわけにもいかない。そのため、最初に猪木への挑戦権を懸けた「UWF代表者決定リーグ戦」が行われ、そこで優勝した藤原喜明が猪木と対戦した(猪木が裸絞めで勝利)。


その試合後、リングに上がった前田が猪木にハイキックをかましたのは、前田をU軍の大将格と見立てた上での猪木VS前田へ向けたアングル作りであった。のちに前田も「猪木から蹴ってこいとの指示があった」ことを告白している。

“前田潰し”ともいわれる謎多き一戦

2月開幕のシリーズ名『ニューウェーブダッシュ』は、完全にU軍を意識したものであり、3月21日の岐阜大会ではようやく猪木とU軍としての前田の初対決がタッグで実現する(藤原が猪木の急所を蹴って反則負け)。


さらに3月26日のシリーズ最終戦では、新日VS U軍の5対5イリミネーションマッチが行われ、ここには猪木も参加した(前田は上田馬之助に場外へ道連れにされて猪木が勝ち残り)。


4月以降はWWFとの提携解消があったため、アンドレ・ザ・ジャイアント最後の新日参戦となり、これを「使い倒す」ためにU軍はいったん脇に回らされる。


そんな中で前田は、アンドレとのシングル戦を組まれている。新日による〝前田潰し〟ともいわれる謎多き一戦だが、この時点での流れからすると、前田の力量をアクシデントへの対処能力も含めて試したという意味合いが強かったのではないか。


さらに、新日というよりはテレビ朝日マターである異種格闘技戦、レオン・スピンクス戦が10月に組まれ、猪木はその両方に集中せざるを得なくなった。


一方、この頃の前田は8月に木戸修と組んで、藤波辰巳(現・辰爾)&木村健吾からIWGPタッグ王座を奪取。試合後のマイクで「UWFの前に常勝チャンピオンなどあり得ない!」と高らかに宣言している。


常勝チャンピオンとは、初代王者となってから五度の防衛を続けてきた藤波組を指したものではあるが、その先に猪木を見据えた言葉でもあっただろう。


また、この時点で前田が、次代のエース候補レースで先頭に立ったとも言えそうだ。実際、猪木VSスピンクスが行われた同日には、ドン・中矢・ニールセンとの異種格闘技戦という藤波には与えられなかったビッグチャンスも手にしている。

プロレス史が変わっていたかもしれない…

同年末の『ジャパンカップ争奪リーグ戦』では、決勝を猪木&藤原と前田&木戸が争うことになる。結果は猪木組の勝利となったが、前田は敗戦コメントの中ではっきりと猪木の衰えを口にして、対決の機運はいよいよ高まっていった。


しかし、そうこうするうちに、長州力と維新軍の新日復帰が決まってしまった。これは『ワールドプロレスリング』中継の視聴率低下の対策として、テレビ朝日が強力プッシュするものであり、そうなると猪木&新日はこれに逆らうことが難しい。


テレ朝サイドが「結果の出ていない前田の将来性に期待するよりも、確実に数字が見込める長州」となるのは仕方のないところだった。そうして戦いの軸は、猪木VS長州へとシフトしていった…。


このような流れの中で猪木VS前田の機会もなかったわけではないが、しかし、これは「戦いを避けた」というより、「先延ばししているうちにタイミングを失した」というほうが、実際のところではなかったか。


もし、この対戦が実現していれば、猪木の体調不良もあっただけに、前田へ新日エースの座が移行して、プロレス史が変わっていたかもしれない。