島田洋七 (C)週刊実話Web
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島田紳助は本当の弟のような存在〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

今の時代だと弟子出身で売れる人は少ないでしょ。


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多くの若手が芸能プロダクションの養成所育ち。でも、俺らは夫婦漫才で有名だった島田洋之介・今喜多代師匠の弟子で、島田一門は、今いくよ・くるよ姉さん、B&B、紳助竜介と、漫才ブームで3組も売れた。本当に珍しい一門ですよ。


うちの師匠の口癖は「私の回りや家の中にはお金は落ちていない。お金は舞台の上に落ちている。だから、はよ相方を見つけなさい」でしたね。弟子入りすると、数年間は身の回りの世話をしたり、芸事を習ったりと想像するかもしれないですけど、うちの師匠は違った。怒ることも、ほとんどなかったですしね。


それで相方を見つけて、師匠にネタを見てもらおうとすると、「うちらは夫婦漫才だから、男同士の漫才なんて分からへん。10人でも、20人でも人前で漫才を披露してウケたら、それがあんたらのパターンの漫才やから」と言われましたね。俺ら弟子が舞台に上がると、舞台袖で見てくれて「もう少し声は大きいほうがエエな」とアドバイスしてくれる程度ですよ。


俺らが若い頃は、うちの師匠を看板に漫才コンビが数組で中国地方や九州などを巡業で回ることがあったんですよ。まだまだ売れていない俺らも一緒について行って、身の回りの世話や前座としてお客さんの前で漫才ができたんです。

漫才を見てはメモを取る勉強熱心だった紳助

島田紳助も、まだ相方の松本竜介と組む前は同行していましたね。喜多代師匠は、着物で舞台に上がっていたから、紳助が着物を出したり、帯を渡したり、お茶を入れ替えたりしていましたね。巡業は大体が10日間くらい。初めて前座を務めさせてもらった後、「B&Bはウケてるな。本舞台を踏めるように吉本へ掛け合ったるわ。紳助も、はよ相方を見つけて前座をやれ」と言われたのを覚えていますね。それで連れてきたのが竜介だったんです。

前回も書きましたけど、漫才ブームの前は俺も紳助も金がなくてね。でも、若いからお腹は空く。寿司屋へ行っても、イワシなどの安いネタばかり食べていたんですよ。すると、寿司屋の大将がたまにマグロをサービスしてくれたんです。


漫才ブームで売れてからは、お世話になったお店に恩返ししようと、大阪で紳助と仕事が一緒になったときは、その寿司屋へ行って、マグロばかり注文したこともありましたね。大将からは「無理してマグロばかり頼まんでエエねん。昔みたいにイワシでもエエやんか」と諭されましたよ。


それにしても、紳助はよく「腹が減った」と言っては俺の後をついて来ていました。漫才を見てはメモをして勉強熱心なんですよ。『佐賀のがばいばあちゃん』が2006年に映画化されたときも出演を快諾してくれて、09年に俺が監督を務めた映画『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』のときも、ギャラは「いらない」と言って出演してくれた。撮影現場には奥さんと来てくれたもんね。


確かに、紳助の辞め方は残念な形になってしまった。でも、芸能人なら写真を撮ってくださいと頼まれたら断るのはなかなか難しい。どこまで事実なのかは知らないけどね。俺にとっては本当の弟のようなかわいい存在。それが紳助ですよ。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。