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漫才ブームを一緒に駆け抜けたザ・ぼんち〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

11月中旬、ザ・ぼんちのまさとから「佐賀の家へ行っていいですか」と突然、電話があったんです。

ザ・ぼんちとB&Bは同じく漫才ブームで売れて、芸歴もほとんど同じ。俺は、どちらかというと相方のおさむとよく飲みに行ったりしていたけど、まさととはそんなになかった。しかも、博多へ来たついでに家へ寄るなら分かるけど、佐賀へ直接来るというから何事かと思いました。

当日、最寄り駅までまさとを迎えに行くと、「ほんまに迎えに来るとは思わんかった」と驚くから「バカか。そんなん嘘ついてどないするねん。俺は社会生活できへんやろ」とツッコミました。俺は芸人、島田洋七の時は嘘やホラで笑わせることもありますけど、普段はそんなことはしませんよ。

以前、たけしもラジオ番組で「洋七の嘘は人の罪にならないから」とフォローしてくれましたね。自宅では、部屋に飾ってある紳助やたけしと一緒に写った写真を1枚1枚撮っていましたね。家では15分くらいだけ話して、近所の寿司屋へ嫁と3人で行ったんです。そこで改めて「今日は何しに来たん?」と、まさとに尋ねてみたら、「この40年のお礼を伝えに来た」と言うじゃありませんか。

B&Bは漫才ブームの前に吉本興業を辞めて、東京へ進出したんです。その時、俺らは「大阪の漫才を全国に広めたる。もし、東京進出が失敗したら芸人を辞めて、広島へ帰ろう」。それくらいの意気込みで上京したんですよ。吉本自体、まだ東京に進出していない時代でしたからね。そうしたら大阪の漫才が全国でウケて漫才ブームが起こった。

2人で握手しながら涙を流し…

漫才ブームの中心は、俺らとツービート、ザ・ぼんち、紳助竜介、のりおよしお…。ザ・ぼんちなんて単独ライブを武道館で開催したほど人気があった。まさとは、いまでもザ・ぼんちという看板でご飯が食べられるのは俺らが東京へ進出して漫才ブームを起こしてくれた、そのことに感謝している旨をわざわざ伝えに来てくれたんです。

50代以上の人たちは、いまでも漫才ブームで活躍した漫才師の名前を覚えているでしょ。まさとは、テレビでたけしが「洋七が東京へ進出しなかったら漫才ブームもなかった。ツービートも世に出ていなかったから、俺は映画監督もやってなかったよ」という内容のことを話しているのを見たことがあるらしいんです。まさとは、自分らもいつかお礼の言葉を俺らに伝えないといけないと思っていたようです。

芸人とそんな真剣な話をしたのは初めてかもしれないですね。楽屋や飲み会では、いつもふざけてギャグを言って終わりですから。それから、まさとが泊まるホテルの前で2人で握手しながら涙を流しましたよ。それを傍で見ていた嫁さんは「あんなオトンは初めて見た。ドラマのワンシーンのようだった」と漏らしていました。

芸人同士の別れ際は「アホかボケ。またな」が普通ですから。コロナ禍でなんでもオンラインでやり取りする風潮もありますけど、大阪からわざわざ佐賀まで来てくれたことが嬉しかったし、やっぱり、人と人は直接会って、腹を割って話すものだなとつくづく思いましたね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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