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「22万のオバケ票」田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』Part1~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「越山会」――。田中角栄が一代で築き上げた前代未聞、唯一無二の政治家個人の最大にして、田中の選挙を支える最強の後援会であった。

その結束は、田中健在の頃の中選挙区制度下の〈新潟3区〉内で、あらゆる組織にかくあるべしと誇示しているようでもあった。

越山会は〈新潟3区〉内の全33市町村単位別に分かれて存在し、それぞれの組織の下に300ほどに細分化された「単位越山会」があった。これらには、中高年層の住民の参加のほか、青年部、婦人部が併設されていた。一方で、地縁血縁を反映させた旧市町村単位、あるいは学区制別単位の越山会も存在した。まさに〈新潟3区〉内に、ネズミ一匹の動きもチェックできる〝網の目〟を張り巡らした組織ということであった。

また、それら単位越山会などの意向は、単位越山会の最高幹部で構成する郡市連絡協議会なる上部組織で意思統一され、すべてを統括する長岡市内の「越後交通」本社2階の越山会本部に伝えられる形になる。それを経て、本部を通じ、各地越山会の動向が東京にいる田中のもとに伝えられるという、完璧な「ピラミッド体制」が確立していたのである。ここでの越後交通とは、バス事業など運輸業を新潟県内で手広く展開する、田中が実質オーナーの会社である。

世間の度肝を抜いた完璧な選挙システム

こうした中で、田中が総理大臣となる前後の最盛期には、〈新潟3区〉内の自民党員1万5000人に対し、越山会会員はじつに10万人近くを誇っていた。ために、県会・市会議員の選挙でも「自民党公認」とは別に、「越山会推薦」の有無により当落が左右されるのが常であった。ちなみに、〈新潟3区〉内の県議19人のうち約7割の13人が「越山会推薦」として送り出され、33市町村のなんと9割にあたる30人の首長が、越山会系であったことさえある。なんとも、べらぼうな組織と言えたのだった。

なるほど、こうした完璧な選挙システムは、田中が苦境に立たされた折の昭和51(1976)年、ロッキード事件における逮捕後の総選挙で、16万8000票を集めて全国の田中批判をハネ返している。さらに、その後の裁判一審で懲役4年の実刑判決が出た後、いよいよピンチのときでも、なんと22万票という〝オバケ票〟を獲得し、世間の度肝を抜いたのであった。田中はこの最強組織のもとで大半の選挙に出馬し、生涯16回の当選を果たしてきた。

それにしても、なぜこれほど強大な政治家個人の後援会が誕生したのだろうか。そこには、経済を含めた新潟という土地柄の厳しさ、その克服を政治家としてのテーマに掲げた田中と、農民を中心とする住民の「利害」が見事に一致したことがうかがえる。利害の一致は、人間同士の絆を結ぶ強力な〝便法〟なのだ。

昭和20年8月、太平洋戦争の敗戦は農民、小作人が支持する社会党を元気づかせた。その後、間もなくの農地改革で、それまでの地主は小作人に対して農地を譲り渡し、ここに農民、小作人は自作農化を果たす。その農地改革の主役を果たしたのが、日本農民組合(「日農」)であり、社会党ということだった。

しかし、この農地改革は、一方で農民の生活を大きく変えることになり、農民は新たな生活目標を模索し始めた。かくて、農地改革を終えたことにより、次の闘争目標を見失った感のあった「日農」や社会党は、新たな未来論議に挑むのだが、ここに至って農民の意識は大きく変わっていた。すなわち、彼らが求めたのは未来への理想、理屈より、「まずは飯」ということだったのである。

「とにかく歩く 歩いて歩いて話を聞く」

元「全共闘」の闘士で、一転、〝田中イズム〟に心酔、のちに目白の田中邸への出入り自由を許された故・斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」経営。元新潟県議)は、越山会の「原点」を次のように話してくれたことがある。

「田中先生から、こう耳にしたことがある。『政治家としての俺は、なんの拠点もないゼロからの出発だった。選挙民が何を一番望んでいるのか、何に一番困っているのかを、他の誰よりも早くつかまなきゃならん。ために、とにかく歩く、歩いて歩いて話を聞いた。しかし、それで終わったら並の代議士にすぎない。それをやったうえで、現実のものにして初めて政治家というのだ。それを、俺は最初から一人でやってきたんだ』と。

要するに、田中先生は誰もが嫌がることにも、全力を集中したということだった。それは『辺境の地』『陸の孤島』と言われた票の極めて少ないところから、政治家としての第一歩を踏み出したことでも明らかだった。ここに『日農』や社会党支持の『辺境の地』『陸の孤島』の住人たちが、新たな〝現世利益〟を求めて田中支持にスライドしていった。越山会はこうした中で原型ができてきた。越山会の出発点は、『日農』や社会党と同じレベルの、民衆からの支持だったんだ。他の自民党議員の後援組織とは、このあたりが大きく異っていた」

その越山会は、昭和28年6月、田中の当選4回目に加茂市で発祥をみたとされている。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。