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斉藤慶子ビキニ公開の次は…機が熟した“還暦サプライズ”歓喜情報

斉藤慶子
斉藤慶子 (C)週刊実話Web

還暦・熟女世代に〝勇気と希望〟を与えたと言っていい。女優・斉藤慶子が約30年ぶりに大胆なビキニの水着姿を披露したのは、この夏のこと。

「『週刊現代』誌上での9ページにわたるカラーグラビア。くびれもバストの谷間も深く、〝十分に使える〟出来映えでした」(マスコミ関係者)

一部メディアの取材に斉藤は、「水着を着ること自体が17~18年ぶりですごく勇気のいることだったけど、やってみて本当に良かったと思います。同年代の人にも見ていただいて、元気になってほしいですね」と話し、続けて、「普段はスカートもはかないし、海に行っても水着を着ることがほとんどないので、今の私にグラビアは遠い世界のことでした。でも、宮崎さんのグラビアを目にしたときに、すごく素敵だなと思って。20代のときに自分が撮ってもらった思い出もよみがえってきて、あのころのことを懐かしく、愛おしく思っていたんです。そんなときに、グラビアのお話をいただいて、今の自分にできるかチャレンジしてみようと。カメラマンも、若いころお世話になった野村誠一さんだったので、安心して水着になることができました」としている。

もちろん、文中の〝宮崎さん〟とは、昨年、〝ヒモビキニ姿〟で世の男たちを〝フルい立たせた〟宮崎美子のこと。

「大学の先輩(国立・熊本大学)に触発されて〝ひと肌脱いだ〟というのは表向きの理由。本音は〝私の方がエロいし凄い〟と思ったからに違いありません。負けん気が強いですから、斉藤は」(芸能関係者)

11月14日には、海辺やプールサイドで撮影されたビキニ姿を収めた『斉藤慶子2022水着カレンダー』も発売された。

「売れ行き・予約も絶好調。この流れが続けば、来年は〝艶サプライズ〟ということになるかも。本人も〝その気〟になっているという情報も流れています」(芸能ライター・小松立志氏)

そんな斉藤は、写真集の宣伝も兼ねて、11月25日にオンエアされた『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)に出演。JAL・キャンペーンガール時代の〝全裸日焼け〟をぶっちゃけ告白。他の出演者を驚かせた。

「この日の番組は『歴代グラドル大集合 裏話ぶっちゃけSP』というテーマで放送されたのですが、斉藤の話が一番面白かった」(テレビ局関係者)

ビルの屋上で“全裸”の日焼け

1982年、JALのキャンペーンガールに抜擢されて芸能界入りを果たした斉藤は、「今は〝美白〟なんだけど、当時は小麦色の肌がすごく流行ったんです」と振り返った。そして、「そのころはみんな黒く(肌も)塗っていたんです」と言い、胸元に手をやりながら、「写真が出来上がったときに、このへんがズレたりすると修正(白い部分が見えてしまうため)しなくちゃいけない。当時は修正が大変だったから〝焼いてくれっ〟て言われて、ビルの屋上で裸で焼いていたんです。全裸でゴロゴロしながら…」と仰天告白したのだ。

「どこから撮られてもいいように〝均一の色〟を目指したというわけで、太ももから股間も焼いた。想像しただけで〝アッチッチ〟という気分になってしまいます」(前出・小松氏)

また、同番組内では〝恐怖体験〟も明かした。独身時代、マンションに賊が入ったときの体験談で、窓は開けられ、玄関ドアも開けっ放しになっていたものの、盗まれた物は何ひとつなかったという。

「実はこのころ、アイドル絶頂期の中山美穂もこのマンションに住んでいて、賊は中山の部屋に入ろうとしたのではないか、との結論に至ったそうです」(スポーツ紙デスク)

部屋に貼ってあった斉藤のポスターを見て逃げて行った泥棒。斉藤は、「美穂さんの部屋だと思って入ったら、私のポスターが貼ってあるから、窓から入って、玄関から帰ったんじゃないかな。私の下着はいらなかったらしい。失礼な話ですよ」と言って苦笑した。

さて、斉藤は1961年7月14日、宮崎県小林市出身の60歳。

「何度も言うように、デビューのきっかけは1982年、熊本大学在学中に800人の応募者の中から日本航空の〝JAL沖縄キャンペーンガール〟に選ばれたことでした」(ワイドショー芸能担当デスク)

そのころ、彼女は「将来の希望はスチュワーデス(キャビンアテンダント)」と話していた。

「当時流行していた〝女子大生ブーム〟のパイオニア的存在で、週刊誌の表紙やグラビアを席巻しました」(マスコミ関係者)

3歳上の宮崎美子(1958年12月11日生まれ)の〝健康的な美〟に対して、斉藤は〝大人びたエロス〟と対照的な存在感を示していた。

野口五郎と結婚寸前で破局…

「宮崎のも良かったけど、〝お世話になった〟のは斉藤のグラビアの方という読者が断然多かったんじゃないかな」(ベテラン芸能記者)

それでも、先に宮崎が人気を博していたことから、一部で『宮崎美子2世』と呼ばれた。というのも、宮崎がブレークするきっかけとなったミノルタのCMに出演。さらに、高視聴率を誇った『クイズダービー』(TBS系)でも、宮崎の解答者枠の後任を斉藤が務めたからだ。

「口にこそ出しませんでしたが、忸怩たる思いがあったはずです。〝わたしはわたし〟というプライドがね。早く〝宮崎離れ〟をしたかったと思います」(前出・テレビ局関係者)

その後、その知性を生かしてクイズ番組やバラエティー、トーク番組で活躍したが、宮崎との〝競演〟は実現しなかった。

「ま、周囲が気を使ってそうしたのかもしれませんが、〝犬猿の仲〟とも囁かれたものでした」(元女性誌記者)

また、映画や2時間ドラマなどでも存在感を示してきた斉藤だが、最も多くのスポットライトを浴びたのは、やはり男関係だった。

「賢くてエロいのですから、芸能界の男たちが放って置きませんでした」(前出・テレビ局関係者)

中でも、野口五郎とは〝本気〟で、結婚寸前までいったというのは有名な話。

「1983年暮れのテレビでの共演で出会い、意気投合したようです。互いの自宅を行き来したり、ハワイでのバカンスが目撃されたりして、結婚は確実と見られていました。野口からのプロポーズ待ちでした」(前出・芸能レポーター)

しかし、2人は破局。野口の〝優柔不断〟が原因とされた。

そして、斉藤は1997年7月、実業家と結婚。長女を授かるも2008年5月に離婚した(親権は斉藤)。2011年11月、15歳年上の『ショップ ジャパン』創業者と〝子連れ再婚〟し現在に至っている。

「経済的不安は微塵もないので、何でもできる。加齢とともに味わい深くなっているところも含め、堂々と全開にしてほしいですね」(芸能記者)

来年、斉藤は芸能活動40年を迎える。

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