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吉幾三に遊びに来いと誘われて〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

漫才ブームの前、「東京で大阪のおもろい漫才見したる」と意気込んで俺らは東京へ進出したけど、俺らより先に大阪から東京へ進出した落語家がいてね。

彼が上京して2日目くらいに「東京を案内しますよ」と誘ってきた。でも、俺らも彼も金がないでしょ。そうしたら安い店にでも行きましょうとなって、新宿で待ち合わせしたんです。そこに現れたのが、吉幾三さんだった。1970年代、すでにヒット曲を出していた吉さんが東京を案内してくれたんですよ。

1軒目は焼肉屋へ行って、2軒、3軒と小さなスナックに連れて行ってくれた。3軒目のスナックで会計している際、ママさんと吉さんの会話が耳に入ってきたんですよ。

「この子らは大阪から出て来て、これから東京でガンバルところ。今日は持ち合わせがないから、ツケにしておいて」

吉さんはすでに有名人だったから、相当稼いでいるだろうと思って焼肉屋でも遠慮せずにバンバン食べていたのよ。吉さんはヒット曲がひと段落したところで、当時はそんなに稼いでなかったんだろうね。

90年代に入ると、TBSラジオで『それゆけ洋七元気丸!』(月曜~金曜)というワイド番組を担当することになったんです。その番組に作詞・作曲家を招くコーナーがあって、ある日、吉さんにゲスト出演してもらった。その時に「あの時は初めて会うのに焼肉をおごってもらったり、無理したでしょ」と振ると、「大丈夫」と否定していたけどね。

吉さんの家は“田舎具合”が違った!

番組が終わると、スタッフに吉さんから電話番号を預かっているとメモを渡されて電話しました。すると「たまには気晴らしに青森に遊びに来ない? 家族も一緒に」と誘いを受けたんです。嫁さんと子どもを連れて、青森へ遊びに行きましたよ。青森空港に着くと、吉さんが迎えに来てくれていてね。これまで営業で青森へ行ったことはあったけど、空港から会館まで直行だから、あんまり景色を楽しんだことがなかった。

青森の自然を眺めていたら、吉さんに「何人かのタレントさんを誘ったことあるけど、本当に来たのは洋七くんだけだよ」と言われてしまってね。「俺だけですか?」と問い返すと「こんな田舎まで誰も来ないよ」と話していたな。

吉さんの自宅に行くと、「僕の曲で知っているのある?」と聞かれたから、「スナックで『酒よ』はよく歌います」と答えると、吉さん直々にピアノを弾いて俺が歌うことになった。歌い終わって吉さんのお子さんに「吉さんより俺のほうが上手いと思わへん?」とギャグで言ったら「洋七さんのほうが下手」とダメ出しされてね。当たり前だけど。

でも、作詞・作曲した人の伴奏で歌うなんて貴重な体験ですよ。それで吉さんの自宅から近いホテルに泊まり、翌朝、ホテルを出ようとすると吉さんが見送りに来てくれて車まで用意してあった。帰り際、干したホタテを土産に頂いたけど、空港で見たら高くてビックリしたね。

俺が育った佐賀も田舎だけど、佐賀市は県庁所在地で電車も通っている。吉さんが住んでいる青森の自宅は田舎具合が違うもんなあ。そりゃあ『俺ら東京さ行ぐだ』と歌いたくなるよね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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