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「要注意人物」田中角栄の事件史外伝『炭管事件と獄中立候補』Part1~政治評論家・小林吉弥

田中角栄
田中角栄 衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

大方の人間は、一生に一度くらいはいよいよ土俵際、時には断崖絶壁で、残るのはかろうじて踵ひとつといったピンチに立つことがある。晴れて代議士バッジをつけた当選1年生の30歳、若き日の田中角栄元首相もまた、絶体絶命の大ピンチに追い込まれていた。

昭和22(1947)年6月に成立した社会党など3党連立の片山哲内閣は、石炭産業の国有化をうかがう臨時石炭鉱業管理法案(略称「炭管法案」)を企図していた。田中の大ピンチとは、それに猛反対する炭鉱業者から、反対運動への工作費として小切手100万円のワイロを受け取ったとして、昭和23年12月15日、東京高検特捜部に収賄容疑で逮捕され、身柄を小菅(東京都葛飾区)の東京拘置所に収監されたことにあった。

当時の物価から算定すると、100万円はおおむね現在の3000万円程度とみていいようである。

その後、起訴され、一審の東京地裁は田中に懲役6月、執行猶予2年の有罪判決を言い渡した。ちなみに、昭和26年6月の東京高裁での控訴審では、無罪となっている。

憲政史上初の“珍事”獄中立候補

しかし、そうした中でとくに田中が塗炭の苦しみを味わったのは、逮捕から間もなくの収監中に衆院が解散され、総選挙が行われることにあった。

解散に至った理由は、時の第2次吉田(茂)内閣で法務政務次官に就任したばかりの田中が、収賄容疑で逮捕されたことにあった。野党より内閣不信任決議案が提出され、これが可決されたことで吉田首相は解散に踏み切ったわけで、このあたりを加味すると、田中が振り回した政局と言ってもよかったのである。

一方、田中自身はすでに疑惑の渦中にあったことから、法務政務次官を就任後わずか1カ月で辞任していた。加えて議員生活もまだ1年半の1年生議員が、拘置所に収監されて次の選挙に立候補できずでは、地元の支援者にも見放され、政治生命を絶たれること必至の情勢を迎えていた。どうあっても、次の選挙には立候補をしなければならない。選択肢は、ほかになかったのだった。

解散は昭和23年12月23日、投票日は年明けて1月23日と決まった。

解散が決まると、田中はただちに「獄中立候補」を表明し、その日のうちに自らの選挙区である〈新潟3区〉内の田中後援会幹部宅に、電報を打った。さすがに「獄中立候補」は、憲政史上初の“珍事”でもあったのである。その電報の発信元は「東京・小菅」とあり、電文は「カイサン タノム」とあった。

その意味は、選挙の準備をよろしく頼むの一方で、選挙資金、すなわち「カネ タノム」のそれでもあったのだった。

「獄中立候補」はしてみたが、田中は拘置所の独房で一人ジリジリとしていた。保釈により、一刻も早く選挙区に入りたい。しかし、その保釈申請はしてあるものの、保釈決定がなかなか出なかった。

ジレた田中は、検事の取り調べにも強気一辺倒で、こう言い放ったものだ。

「これは政治的陰謀だ。検事総長を告訴するから、筆とスズリを持って来いッ」
「俺がここを出たら、逮捕状を出した裁判官は必ずクビにしてやるッ」

待ちに待った保釈は1月23日の投票日まで、残すは10日だけの1月13日と決まった。

しかし、なぜ保釈が長びいたのだろうか。これには、じつはGHQ(連合国軍総司令部)の強い意向、要請があったことが秘められている。

のちのロッキード事件での逮捕にも、「米国という虎の尾を踏んだから」との見方があったが、「田中と米国」はすでにこの頃から“にらみ合い”が続いていたということになる。

GHQから「要注意人物」としてマーク

戦後間もなくのわが政界は、政党間の離合集散が繰り返され、政治は戦後社会の混乱を象徴していた。

昭和22年4月、初の中選挙区制としての総選挙で、日本進歩党から初当選した田中も、その後は民主党、同志クラブ、民主クラブといった小党派を渡り歩いていた。

その民主クラブと第1次内閣を組織していた吉田が総裁を務める自由党が合同し、田中は民主自由党(民自党)に所属したという具合だった。

また、政権そのものも、円滑な戦後処理に尽力した皇族初の東久邇宮稔彦から、幣原喜重郎、吉田茂(第1次)、片山哲、芦田均、昭和23年10月の吉田(第2次)へと、短期間でコロコロと変わった。

以後、吉田は第5次内閣まで長期政権を維持し、田中は「保守本流」として、この吉田のもとに蝟集する高級官僚出身の代議士たちに伍しての、いわゆる「吉田学校」に“入学”を許された。田中は、ここから以後の出世の糸口をつかむことになるのだった。

田中は初当選から「チョビひげ野郎」の異名を付けられ、すこぶる威勢のいい代議士として知られていた。しかし、第1次吉田政権のあとの芦田内閣が総辞職すると、そのあとの首相の座をめぐってGHQが強く推してきた人物に、誰よりもオクターブを高く「いかにGHQといえど、内政干渉は認められない」と、反対の声を上げたのであった。

ために、以後の田中はGHQから「要注意人物」としてマークされることになった。保釈決定がなかなか下りなかったのは、GHQの強い横やり、陰謀ということであった。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。