芸能

白川和子VS宮下順子“至高の濡れ場”名場面!『日活ロマンポルノ』50周年~Part1~

(画像)carlo dapino / shutterstock

1971年(昭和46年)に日活ロマンポルノが誕生してから、今年でちょうど50周年。

1988年(昭和63年)に製作が終了するまで、1000本以上の作品が生まれ、数多くの名女優がスクリーンを躍動した。レジェンドたちの輝かしい姿と豊潤な色香を誌上プレイバック!

日活ロマンポルノは白川和子(74)とともに始まった。彼女が主演した『団地妻 昼下がりの情事』(監督・西村昭五郎)が71年11月20日に公開され、興行収入1億円を超える大ヒットを記録。経営難に陥っていた日活に、光をもたらすことになる。

しかし、それは簡単に生まれたわけではない。日活にはポルノを撮った監督が皆無だったため、どんなものをどう撮ればいいのか分からなかったのだ。そして何より、演じてくれる女優を探すのが大変だった。

最終的に、ピンク映画でキャリアを積んできた白川に決まったが、これが大正解。濡れ場の演じ方を心得ているから、西村監督はカットの長さと体位を変えるキュー、そしてフィニッシュの言葉を出せば済んだという。

スタッフと観客の信頼を一気に勝ち得た彼女は、その後、結婚して引退するまでの1年3カ月の間に、計20本の作品に出演。〝ロマンポルノの女王〟として君臨した。その頃、白川は自身のモットーについて、次のように語っている。

「女優は娼婦だと私は思っています。見てくれる人が抱きたいと感じるような女でなければ、と思うのね。だから、どうすれば私のシーンを見て、男の人が欲情を抱くようになるか、それを考えつつ工夫しているんですよ」

このように崇高な女優精神を持っていたから、迫力のある濡れ場を演じられたのだろう。それゆえ、共演した男優は抱き具合、肌の具合が実にいいと喜び、観客は悩ましい表情で切なげにあえぎ、つぶやき、激しく悶える彼女の浅黒い裸体に興奮したのである。

白川は76年の『青春の殺人者』(監督・長谷川和彦)で女優復帰するが、残念ながらロマンポルノへの出演は二度となかった。これ以降はバイプレーヤーとして幅広く活躍している。

「白川和子が迫力なら宮下順子は情緒だった」

ロマンポルノ出演本数の第1位は宮下順子(72)である。その数、およそ70本以上。新陳代謝の激しいロマンポルノにあって、これは快挙と言える。

ロマンポルノでのデビュー作は、72年7月8日に封切られた『団地妻 忘れ得ぬ夜』(監督・遠藤三郎)。移籍前のピンク時代にも人妻役を演じていたが、日活に移ってからは、さらに同系の役柄が増えていった。

その理由について、彼女はこう言っている。

「とにかく、最初から老けていたでしょう。だから人妻役ばっかり。あたしって、女子高生とトルコ嬢の役だけは、やったことがないんですよ、ピンク映画の頃から」(自叙伝『水のように夢のように』より)

宮下によると、当時は普通のOLのように撮影所に通っていたという。そして、現場ではいつも生身の感触でエロス度の高い演技を披露し、瞬く間に看板女優となっていった。

当時の彼女のことを、小沼勝監督はこう評した。

「白川和子が迫力なら宮下順子は情緒だった。何といっても声がいい」

宮下の魅力は、神代辰巳監督と組んだ『四畳半襖の裏張り』(73年)や『赫い髪の女』(79年)で堪能できるが、田中登監督と一緒に製作した『実録阿部定』(75年)も忘れられない。吉蔵との出会いからラストの〝チン切り〟に至るまで、濃艶に輝く演技で素晴らしかった。

実はこれ、代役。初めに出演が決まっていた女優が他社の映画に出ることになり、お鉢が回ってきたものだ。宮下は代わって良くなかったと言われたくないため、いつもに増して頑張ったという。

そのせいか、好きな作品を聞かれると、彼女は一番に『実録阿部定』を挙げる。

「田中登監督とは、ほかに『屋根裏の散歩者』(76年)や『責める!』(77年)なども撮っている。この頃の田中監督への惚れ込みようは半端なものではなかった。新宿の酒場で一緒になったとき、酔いが回るにつれ『彼を絶対に落としてみせる』と言っていたのをよく覚えている」(映画ライター・若月祐二)

―Part2に続く―

あわせて読みたい