冬木弘道 (C)週刊実話Web
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冬木弘道「指一本ぶん角度が違えば、もう違う技なんだよ!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

2003年3月19日、がん性腹膜炎のため42歳の若さで亡くなった冬木弘道。「理不尽大王」と呼ばれた勝手気ままな振る舞いの一方で、若手時代から続く三沢光晴との親交など、その人柄を慕うレスラーや関係者も多かった。


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もしかすると最初から、「プロレスとは何か」を理解していたのかもしれない。高校卒業後、国際プロレスの試合会場で入団を直訴した冬木弘道だが、この時点では格闘技はおろか、スポーツ経験すらほとんどなかったという。


レスラー志望者であれば、通常はレスリング部に所属したり、トレーニングジムへ通ったりというのが、よく耳にするところ。しかし、冬木の場合は少なくとも公式プロフィル上に、そのような経歴は見当たらない。


隠れて自主トレをしていた可能性もあるが、冬木の入団直訴を受けた吉原功社長は「一目で運動経験のないことが分かった」と語っており、実際に最初はレスラーとしてではなく、リング設営などを担う資材部に配属されている。


この当時の冬木は、身長180センチといくらか大柄ではあったものの、後年に「マッチョボディー」と自称したほど体格に恵まれていたわけではない。それでいて、いきなりプロレスラーになりたいというのは、あまりにも常識外れな話である。

「試合数も少なくて楽だから…」

国際プロ崩壊から全日本プロレスへ移籍した頃の冬木は、リングの内外においてあまり主張をするタイプではなかった。川田利明とタッグを組んだときにも、攻撃の見せ場は川田に譲り、冬木自身はもっぱら相手にやられることで試合を組み立てていた。


20代の頃から脇役に徹するというのは珍しいことで、そう考えると冬木は自分がトップに立つよりも、プロレス界に安住することを第一に望んでいたかのようでもある。


天龍源一郎とともにSWSへの移籍を決めたとき、『週刊プロレス』に「条件(金)が良かったし、試合数も少なくて楽だからね」との冬木のコメントが掲載されたことがあった。


そのため、冬木はSWSで観客からブーイングを浴びることになるが、これもSWS批判の急先鋒だった週プロにこのような話をすることで、対立構造を際立たせようという算段だったのかもしれない。


そんな冬木が「理不尽大王」に変貌するきっかけとなったのは、1994年3月のFMW両国大会だった。天龍は阿修羅・原と組んで臨んだ大仁田厚&ターザン後藤とのタッグ戦で、大仁田のサンダーファイヤー・パワーボムに沈められた。


この結果に対して冬木は激怒。続く4月のWAR大会で阿修羅とのシングル戦に勝利すると、「これまで天龍や阿修羅を支えて死に役をやってきたのに、それが大仁田や後藤に負けるなんて冗談じゃない」と正規軍を離れ、邪道と外道を引き連れてヒール軍団「冬木軍」を結成した。

理不尽キャラの裏に綿密な作戦

この直前、川田の得意技であるストレッチプラムを披露した冬木は、記者から「かつての盟友へのメッセージか?」と問われると、「指一本ぶん角度が違えば、もう違う技なんだよ! よく見ろ!」と吠え、返す刀で「あんなしょっぱいヤツに負けてたまるか」と川田をこき下ろした。


他団体のトップ選手をしょっぱいとけなす理不尽極まりない暴言の裏側には、「川田より上」とアピールすることで天龍の敵役にふさわしい存在となり、ヒールとして団体を盛り上げようとの考えがあったのではないか。


96年に冬木は、WARを離脱して「冬木軍プロモーション」を設立。インディー団体の統一機構となる「FFF」への参加を表明したが、WAR側はFFFに対抗するべく「プロレス連合會」を発足させている。


つまり冬木退団の裏側には、「すでに経営難に陥っていたWARを救うべく、FFF対プロレス連合會の構図をつくる」というインディー再編計画があったとも考えられるのだ(結果的にFFFは資金難から旗揚げ前に崩壊。しばらく後にWARは全選手を解雇して、団体から興行会社に業態変更している)。


その後は冬木軍プロモーションを設立し、邪道、外道らとともにプロレス・エンタメ路線を開拓。しかし、インディー隆盛に一役買った冬木が、42歳の若さで亡くなったことが、何よりも一番の「理不尽」であった。