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銀座のクラブで大横綱・北の湖からゴチ!〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

漫才ブームの頃、銀座8丁目で信号待ちをしていたら、横に大きな人がいる気配がした。見上げたら横綱の北の湖さんだったんです。

目が合って「こんにちは」と挨拶すると、「こんにちは」と返してくれてね。「今からどこへ行くんですか?」と尋ねると「贔屓の社長さんが飲んでいるから顔を出します。洋七さんは?」と聞かれた。「俺は友達とクラブへ遊びに行くから、待ち合わせ場所に向かっているんです」。そう答えると、「どこのクラブですか?」と聞かれたんですが、信号を渡ると、それぞれの方向へと別れました。

俺はたけしと待ち合わせをしてクラブで飲んでいた。1時間くらいすると、店のボーイさんに「洋七さん、横綱が来ていますよ」と声をかけられたんです。本当に北の湖さんがいたからビックリしましたよ。

「友達って、たけしさんだったんですか。売れっ子の2人で飲んでいるなんてすごいですね。ご一緒してもいいですか?」

「エエよ。でも、北の湖さんは横綱やし、あなたのほうがすごいんちゃうの?」

俺も相撲は好きだから色々と話をさせてもらってね。そのうち俺とたけしが代わる代わる横綱を笑わせたんです。1時間半くらい経つと「もう勘弁してください。笑いすぎて腹が痛いです」と横綱が言ってね。

お会計を頼んだら、横綱が「僕に奢らせてください。1時間半も売れっ子のおふたりに楽しませてもらったので僕が払います」と。そうしたら、おもむろに着物の中から200万円くらいの現金を出して支払った。

本当に優しくていい人

「そんな大金どないしたんですか?」

「さっき贔屓の社長のところに顔を出したら渡されたので『ごっつあんです』と言ってもらいました」

「笑わせたりしたん?」

「僕らは笑わせることはできませんよ。一緒に飲んで写真を撮ったくらいです」

「ごっつあんです」だけで、そんな大金をもらえることにビックリしたね。俺らはいくら笑わせても、せいぜいビールを2~3本出してもらえる程度ですから。

その後、引退して親方になった北の湖さんから稽古見学に招待されたことがあるんです。親方は竹刀で力士の体を叩いたり、怒鳴ったりと厳しいんだろうなと思って部屋へ行くと、まったく違った。竹刀で叩くことはないし怒鳴ることも一切しない。どっしりと座って「もっとおっつけて突き出す」とかアドバイスするだけ。若い衆に「親方はいつもこんなに優しいの?」と半信半疑で聞くと、「一度も怒られたことはない」と言っていたね。

そういえば、誘ってもらって本場所を見に行ったこともあったな。序ノ口だと午前中からやっているでしょ。早い時間帯だと呼び出しも若いんですよ。若い呼び出しが東なのに「にーしー」と間違えたからどうするのかなと思ったら、「西は反対側」と取り繕った。これには場内も大爆笑。その後、ネタで何度も使わせてもらいましたよ。

最後に会ったのは、亡くなる2年くらい前。福岡空港でバッタリ遭遇したんです。初めて出会った銀座のことも覚えていてね。嬉しかったな。北の湖さんは飲んだときも、部屋で稽古を見せてもらったときも本当に優しくて、いい人でした。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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