島田洋七 (C)週刊実話Web
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弟子から売れるのは本当に大変!〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

前回は、医学部に合格した元弟子の話をしましたけど、なかなか売れないケースが多いね。医学部に入った子は4年も弟子をやって芽が出なかったですから。


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実は、俺が吉本興業を辞める前に弟子を取っているんです。その弟子は遅刻を一切しないし、ハキハキして気が利く。他の芸人たちも「この子は売れるんちゃいますか」と評価してくれていた。M-1に何度も出場したんですが、どうしても3回戦止まり。次の準々決勝まで勝ち進めば、テレビ局も使ってみようと思うんですけどね。


俺は彼に「10年やって売れなかったら辞めたほうがエエ」と前々から話していたんです。もう33歳だったし、第2の人生を見つけたほうがいいじゃないですか。それで迎えた10年目のM-1では2回戦で敗退してしまったんですよ。


敗退後、その弟子から電話が掛かってきた。「今から師匠が泊まっているホテルへ行っていいですか?」と。ホテルで話すのもなんだから「寿司屋でも行こうか」と誘ったんです。寿司屋で弟子は泣きながら「弟子入りする時に、10年で売れなければ辞めたほうがエエと師匠がおっしゃったので、もう辞める決心をしました」と切り出したんです。


俺も「そのほうがエエかもな。来年、再来年には売れるかもしれないという夢だけで続けていてもな。辞める勇気も大切や。これからどうすんねん?」と聞くと、「お世話になっている不動産屋さんが駅前にいい物件があるからと、飲みながら中華料理をつまめる店を始めようと思います」。

今は「お笑いの学校」があっていい環境

弟子だけでは食べていけないから、中華料理屋でバイトしていて、店の大将からセンスがあるからと途中からホールではなく、料理も任されていたんです。でも、店を出すには250万円が必要だった。

「その金はどうするねん」と尋ねると、「公的な機関から借ります」。1カ月後、弟子から連絡がありましたよ。おおまかな内容は、これまできちんと確定申告をしてこなかったため、公的機関からお金を借りられなかったらしいんです。


俺は250万円を貸しました。毎月5万円を返せばいいとね。店がオープンして、毎月5万円をきっちりと返済してきた。3年くらい一度も遅れずにですよ。残りが50万円くらいになった時、今回のコロナで商売がうまくいかなくなり、2カ月だけ返済を待ってくださいと連絡してきた。


「残りは返さんでエエよ」


そう言うと、わざわざ俺の住む佐賀まで来てね。その後、手紙が届いて現在は介護の仕事に就いたみたい。


たけしのところも弟子は300人いたんじゃないかな。でも、全国的に名前と顔が知られて、今も活躍しているのはガダルカナル・タカとそのまんま東くらいでしょ。やすきよさんも、たくさんお弟子さんがいたけど、有名なのは西川のりおくらい。弟子から売れるのは本当に大変なんですよ。


今は吉本をはじめ、各芸能プロダクションがお笑いの学校を作ったでしょ。そのほうがお笑いをやりたい子らが集まって、コンビを組む人を選べるからいい環境だと思いますよ。俺らの頃は、家出したとか、学校を辞めて何もやることがないから弟子になるのも多かったからね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。