島田洋七 (C)週刊実話Web
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弟子にしてください!悲喜こもごも〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

前回の自衛隊出身の他にも、さまざまな弟子がいました。


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弟子入り志願の方法も変わったことをする子がいてね。弟子入りは人の紹介もあるし、テレビ局の玄関で出待ちして、「弟子にしてください」というパターンもあった。


一度、テレビ局から出ると、カモメの被り物をした男が近づいて来て「弟子にしてください!」と言ってきた。その時は笑ったけど、「まず、どこの誰か名乗らないと怖いでしょ」とクギを刺しましたね。弟子入りを志願する人には、履歴書と親の承諾書を持って来てもらうことにしていたけど、その被り物をした子は、そう告げると二度と姿を現さなかった。親に芸能界入りを反対されることもあるだろうし、中には履歴書に書けないような訳ありの事情もあったりするんでしょう。そういう弟子入り志願者は意外と多かったですよ。


ある時、人の紹介で元お相撲さんが弟子になりたいと面談に来たことがあった。3年ほど相撲部屋にいたみたいなんだけど、腰を痛めて、俺のところに来たと話してたな。体型が面白いから「漫才よりコントのほうが向いているし、俺は漫才師志望の弟子しか取らないから考えてまた来なさい」と伝えました。そして「相撲で3年修業して、漫才でまた何年間も修業するのは大変だよ」とも付け加えました。そうしたら翌日、その元力士が来て「考えました」と言うから「どないするねん?」と聞くと、「やめさせて頂きます」と断りを入れたから、ひっくり返りましたよ(笑)。

他の仕事をしたほうがエエんちゃうか?

中には、何年もいて他の世界へ飛び立っていく弟子もいましたね。俺が監督した映画『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』に出した弟子がいたんです。その頃には弟子入りして4年くらい経っていた。それまでも何回か相方を連れて来て、ネタを見たことがあるんだけど、その時、初めて彼にこう告げました。

「悪いけど、オモロないわ。4年やって、それなら他の仕事をしたほうがエエんちゃうか」


冗談半分で「親は何してんねん?」と問いただすと「医者です」。続けて「兄弟は?」と聞くと「下に2人いて、両方とも医学部に通っています」と打ち明けたから、もうビックリしたね。


「お前も今から勉強して医者になれ。一発芸で売れるかもしれんけど、漫才では難しいわ」とダメ出しすると、「分かりました。映画に出演させて頂きありがとうございました」と辞めていきましたね。


2年後、その彼から電話が掛かってきたんです。そうしたら「金沢大学の医学部に合格しました」と。それで学生証を送って来て、本当に医学部生になっていたんですよ。弟子を辞めた後、医学部受験専門の予備校に2年間通って合格したらしいんです。


3年前、(ビート)たけしと『たけしが行く!わがままオヤジ旅3』というテレビ東京の番組で金沢へ行ったんですよ。たけしに「俺の元弟子で医学部に入ったのがおるねん」とふったら、「面白いから呼ぼう」となって再会しましたよ。


医者になるのも難しいけど、芸人として売れるのはもっと難しい。漫才には漫才の、医者には医者の、それぞれ違う頭の良さがいるとつくづく思ったね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。