(画像) polkadot_photo / shutterstock
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作家・阿川弘之“文壇大会で前人未到3連覇達成”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

文壇麻雀が全盛を極めていた頃、当時、角川書店の角川春樹社長が音頭を取って、大がかりな麻雀大会が開かれていた。


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麻雀好きの文化人が多数参加した『新春文壇麻雀大会』の模様は、小説誌『野性時代』に掲載されたが、作家連中にとって大会で勝ちを収める栄誉は、小説賞受賞とは違った意味で大きなステータスであった。


何度目かの大会では、春樹社長自身が優勝したこともある。主催者であっても遠慮はしない。真剣勝負の緊張感が文壇麻雀大会の特徴でもあった。


毎年、ライバル心むき出しの過酷なバトルが展開されたが、その中で阿川弘之は、持ち前の一歩も引かない強気の麻雀でグイグイ押しまくり、前人未到のV3を達成している。


ある日、私が行きつけの雀荘に顔を出すと、ムツゴロウこと畑正憲がいて「灘さん、阿川弘之という人は、ずいぶんと神秘的な麻雀を打つんですよ。一度対局してみては…」と話しかけてきた。


伝記物が好きで阿川の著書『山本五十六』を熟読していた私は、畑の「神秘的な麻雀を打つ」という言葉に少なからず興味を抱いて、『月刊プロ麻雀』に〝夢の対局〟という企画を提出。そして、対局が決まった。メンバーは阿川、畑、灘麻太郎、そして小島武夫である。


南場3局、阿川はプラス2800点で現在2着の南家。8巡目の手は以下の通り。


【六筒、七筒、七筒、七筒、七筒、二索、三索、三索、三索、三索、四索、五索、六索】


ここに八筒をツモってきた。トップ走者の東家が一索、六索、二索と索子の捨て牌を残し、リーチをかけているところである。阿川との差は2000点であった。

上手な人が必ず勝つとは限らない

ここで阿川は三索のアンカンに出て二索待ち、次巡に六筒ツモで二索切りのリーチという手筋。4面待ちを崩して単騎待ちへ、次には手を大きくしての4面待ち。並の麻雀ではない。感受性が強いというか、やはり神秘的な麻雀なのかもしれない。

ただ、私の場合はこうは打たない。三索切りの即リーチで一索、二索、四索、七索の待ちにする。勝てると思ったら安くても追っかけリーチに出て、アガってトップに立ち次親を迎える作戦に出る。


それはともかく、この対局から数日後、同じ作家仲間だった吉行淳之介に会ったとき、阿川は「俺は灘麻太郎、小島武夫、畑正憲といったプロ雀士と打って、そこそこの勝負をした」と自慢話をしたという。


すると、吉行が「あなたはプロとは打ってはいけない」と、阿川をたしなめた。私は吉行とも何度か対局したが、その時も確かに「プロはアマチュアと打ってはいけないのです」と言っていた。


「なぜですか?」という私の問いに吉行は、「野球の王(貞治)だって、中学生の球を打てないときだってあるでしょう。集中力が湧かないと、リズムが狂うからです」と答えてくれたが、私はこの意見には反対だ。


麻雀の面白味は、上手な人が必ず勝つとは限らないところにあり、本当に面白く感じるのは初級の頃だからである。


私が聞いた若い時分の阿川の実力は、雀豪とは程遠いものであった。


菊池寛が日本麻雀連盟の初代会長(二代目は久米正雄)を務めていた頃、直木三十五の愛人宅、あるいは阿川の師匠である志賀直哉邸で、盛んに麻雀が行われていた。


グループには直木と菊池のほか、池谷信三郎、佐佐木茂索、永井龍男、横光利一らが加わっていた。


現在のようにリーチ主体の麻雀ではなく、テンパイを隠し合いながら打ち進める麻雀だったため、お互いのしぐさや癖を読み取る楽しみがあった。

激高しやすい“阿川ゴジラ”

菊池はテンパイすると、1オクターブ高い声で軍歌を歌い始めたというし、横光は大きい手が入ると、体全体が震えていたというから、相手に簡単に見破られてしまう。直木も決まって〝テンパイタバコ〟に火をつけたそうで、こちらも本人は気付いていなかったが、周囲の人たちには見抜かれていた。

一方、志賀邸の麻雀は典型的な家族麻雀で、終始のんびり和やかな雰囲気で、ゲームが続けられたという。


このグループで負け頭は、常に〝阿川ゴジラ〟であった。ゴジラが口から放射熱線を吐くかのごとく、すさまじい形相で卓に向かうところから、そう命名されたのだろうか。当時の阿川はまだ青年で、書生の面影を残しており、貫禄の点からいっても志賀らの足元にも及ばない。麻雀のほうもまだ青かったのだろう。


後年の阿川は、女優の小林千登勢宅でしばしば卓を囲んでいた。小林が亡くなると麻雀から足が遠のいてしまったが、頻繁に打っていた頃は徹夜になることが多かった。阿川が負け分を取り戻すまでやめないため、なかなかゲームセットにならないのだ。


「テレビの本番があるから、そろそろお化粧しないと」


そう小林が言えば「そんなもん、せんでいい」と阿川ゴジラ。出発ギリギリまで解放してくれなかった。


熱しやすい性格は晩年になっても変わらず、阿川には〝瞬間湯沸かし器〟のあだ名が付いていた。


(文中敬称略)
阿川弘之(あがわ・ひろゆき) 1920(大正9)年12月24日生まれ~2015(平成27)年8月3日没。広島市出身。東大を繰り上げ卒業し、海軍予備学生として海軍に入隊。戦後、志賀直哉の知遇を得て作家デビュー。タレント、エッセイストの佐和子は長女。
灘麻太郎(なだ・あさたろう) 北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。