島田洋七 (C)週刊実話Web
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西城秀樹と野口五郎の思い出〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

漫才ブームの最中に『ハナキンスタジオ』というフジテレビの歌番組の司会をB&Bが務めていたんです。番組は毎週金曜午後8時からの生放送でした。


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ある日、山口百恵ちゃんがリハーサルに遅れてスタジオに入って来て、ポツンとスタジオの片隅で佇んでいた。何度か共演したことがあったから「百恵ちゃん、どうしたん?」と声を掛けたんです。すると、彼女が「私、あと4本番組に出たら引退するんです」と口にしたからビックリしたね。


百恵ちゃんはアイドルの中でもトップクラスの人気があった。「ホンマ?」と聞き返すと「はい」と、寂しそうに答えていました。それから10日後くらいかな、週刊誌に「山口百恵 結婚、引退」と大きく報道されたのを覚えています。


今でこそ、お笑い芸人とアイドルが飲みに行ったりすることはあるかもしれないけど、当時のアイドルはどこへ行くにもマネジャーが一緒。しかも、自由に出歩けないし、男女問わず恋人をつくることを禁止されていたり、車を買っても自由に運転できない。もし、事故でも起こしたら大変ですからね。


ただ、同じ広島出身、『オールスター水泳大会』などで一緒になって仲良くなった西城秀樹とは一度だけ2人で飲みに行ったことがあるんですよ。当時、モノマネタレントのコロッケが六本木のスナックで働いていて、そこへ行ったんです。スナックでは、コロッケがやかんを並べてジャッキー・チェンのモノマネをしていましたね。秀樹は広島市内出身だから地元の話も分かる。楽しかったね。秀樹は物凄く真面目な男でした。

5回も電話番号を交換

当時、秀樹と野口五郎、郷ひろみは「新御三家」と呼ばれ大人気だったでしょ。ちょうど『私鉄沿線』が大ヒットしている頃、野口五郎とも何度も番組で共演しましたよ。そのたびに彼が「今度、飲みに行きましょう」と誘うから、「じゃあ、電話してな」と言ってお互い電話番号を交換していたんです。でも、お互い忙しいから連絡を取り合わないまま1カ月くらい経ち、また番組で共演する。

そこでまた「飲みに行きましょう」と約束して、電話番号を交換するでしょ。俺らも野口五郎も忙しいから、電話番号を交換したことを忘れてしまうんですよ。そんなことが4回あった。


「何回、電話番号を教えるねん。掛けてきたことないやんか。これで5回目やで」そうツッコむと、「そんなに教えましたっけ?」


1970年代後半といえば、携帯電話なんてなかった時代でしょ。だから、お互い自宅の電話番号を紙に書いて交換していたんですよ。


数日後のある日、俺の財布から「田中五郎左衛門」という名前と電話番号が書いてある紙が出てきた。それを見たマネジャーが「これは誰ですか? 今どきこんな時代劇に出てくるような名前の人なんていますか」といぶかるから、しばらく考えたんです。それが野口五郎の電話番号だったんですよ。


交換した名前と電話番号を書いた紙をもしも落としたら、大変なことになるでしょ。だから名前を変えてメモしていたんです。自分でも誰が誰だか分からなくなっていましたね。
島田洋七 1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。