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田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part7~政治評論家・小林吉弥

田中角栄 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

29歳の民主党代議士1年生として、当選早々に衆院本会議場での演説機会を得た田中角栄は、時の最高権力者である吉田茂首相の目に止まり、法務政務次官のポストまで手に入れた。事業も順風満帆であり、田中は得意の絶頂にあった。

東京・飯田橋の田中土建工業本社から歩いて5分ほどの花街・神楽坂は、ために田中の〝根城〟ともなっていた。

この神楽坂には、当時の待合、今で言う料亭の『松ヶ枝』があった。のちの昭和30(1955)年、時の自由党と民主党が「保守合同」で合併し、現在の自由民主党が結成された際に、民主党幹部の三木武吉はさまざまな裏交渉を担ったが、『松ヶ枝』の女将は三木の愛人だった。

永田町からも車での便よしで、神楽坂には政治家が多く集まった。政局が慌ただしくなると、政党幹部をはじめ議員が夜な夜な足しげく訪れたことで、新聞は〈政治は夜つくられる〉と報じ、『松ヶ枝』も戦後政治の裏舞台として後世に名を残すことになった。

さて、その頃、間もなく田中の愛人となり、神楽坂に別宅を構えることになったのは、「円弥」の源氏名で神楽坂のお座敷に出ていた芸者の辻和子だった。和子はのちに、その著作『熱情』(講談社)でこんなくだりを記している。

〈ある日、待合に、わたしたち3人の芸者が呼ばれました。お客様は、小柄で頭を坊主刈りにした、いかにも人徳がありそうなやさしい方でした。(中略)一方、お連れのお客さまは逆に大柄で、このお客様のお座敷には何度か呼ばれたことがありました。警察官僚のトップクラスの方です。その警察のトップの方が、主賓である小柄なお客さまに対しては頭があがらない様子です。その小柄なお客さまが、じつは児玉誉士夫先生で…〉

古くから縁のあった田中と児玉

児玉も神楽坂を利用していたということからすると、このあたりで〝常連〟だった田中との出会いがあったかもしれない。今は『松ヶ枝』の跡地にマンションが建っているが、その真裏は「毘沙門天(善國寺)」で、正面の門柱には〈昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建之〉と刻まれているのである。

田中、児玉、ともにロッキード事件で何度も名前が挙がることになるが、古くから神楽坂に縁のあった2人だったのだ。

ちなみに、田中土建工業発足当時の田中社長が、取引先の大店の親方と『松ヶ枝』で一杯やったときのエピソードがあり、のちに田中の秘書となった早坂茂三が次のように公開している。その親方から聞いた話だそうである。

「角ちゃんが店(田中土建工業)を出した頃、座敷に俺を呼んで芸者を15人くらいはべらせた。若いのに助平話が上手で、本人も浴びるほど酒は飲む、浪花節は唸るで、おおいに席は盛り上がった。そして、言うんだ。並み居る芸者衆を見渡し、『オヤジさん、よりどりみどりだ。2階にでっかい布団を敷いてある。2、3人連れていっていい夢を見てくれ』と抜かした。俺が『角ちゃん、女は飽きたよ』と笑ったら『そうかい。じゃあ、俺と寝るか』と言いやがった。まァ冗談めかしなのだが、仕事をもらうのにも命懸け、何事にも真剣勝負の男だとよく分かった」(月刊『宝石』平成10年5月号)

こうした順風満帆の事業家から政治家へと「岐路」を曲がった田中ではあったが、間もなく吉田首相の予見通り「炭管疑獄」に連座したかどで逮捕、その後、一審有罪(二審で無罪)という舞台の暗転をみた。

しかし、しぶとく権力の座にしがみつき、やがては「今太閤」の声の中で首相の座に就き、天下を取ってしまった。

普通の社会人、平和な家庭人となっていた

しかしまた、首相在任中に金脈・女性問題が露呈して失脚、さらには「ロッキード事件」で逮捕、収監され、裁判では「潔白」を主張し続けたが、そのさなかに病魔に倒れて政治生命を絶たれるといった波乱の人生を送ったのは、読者諸賢のご案内の通りである。

のちに、田中はその「人生の岐路」について、おおむね次のような言葉を残している。

「自分が正しいと思った正念場では、強気に立ち向かうことを譲ることはなかった。また、越後人は律義だが、義理堅さ、誠心誠意で全力投球という姿勢を忘れぬことは、常に心していた。

まァ人生は『運』に左右される部分も多いが、振り返れば選挙出馬を踏みとどまっていたとすれば、私も普通の社会人、平和な家庭人となっていたことであろうことは確かで、かすかではあるが悔やまれることもあります。まさに〝人生の岐路〟が選挙への出馬であった」

田中の義理堅さについて言えば、対人関係のそれは多く知られているところだが、第1回目の出馬以来、選挙の際の〝定宿〟を変えなかったことにも見られた。長岡では『枕川楼』、柏崎『天京荘』『天野屋旅館』、小出『須田屋』、越後湯沢『いなもと』、栃尾『髙寿館』といった具合で、どんなに古くなって不便でも、営業している限り近くに新しいホテル、旅館ができても変えることは一切なかった。

そうした義理堅さがジワジワと選挙区内に知られることになり、田中という人物の本質を見極めての、根強い支援者の輪ができたと言えないこともなかった。

世の中どんなに変わっても、義理堅い人間は最後に信用される。心したいものである。

(本文中敬称略/完)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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