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田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part6~政治評論家・小林吉弥

田中角栄 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「オイ、おまえさん…当選したよッ。代議士というのになったよッ…」

総選挙の投票が締め切られ、実家(新潟県刈羽郡=現・柏崎市)にふらふらになって帰った田中角栄は、それから死んだように眠り続けた。もはや退路を断った2回目の選挙ゆえ、ぶっ倒れる寸前まで選挙区〈新潟3区〉(定数5)をくまなく回り続け、ドッと疲れが出たようであった。

その翌日(昭和22年4月26日)、なお眠り続ける田中に冒頭の声をかけたのが、すぐ上の姉であった。田中は、そのときの模様を自らの著作『私の履歴書』(日本経済新聞社)で、次のように書いている。

「ふと障子があいて、(当選との)姉のどなるような声がした。私の耳には、それが夢かうつつか、定かなものとはならなかった。私はそれからまた、何時間か眠り続けた」

定数5のうちの3位当選、時に「進歩党」から名を変えていた「民主党」からの代議士誕生であった。29歳である。

しかし、その2日後、地元紙『新潟日報』のインタビューでは、早くもオクターブを上げた。いかにも立ち直りの早い田中ならではで、そこからは〝してやったり〟の鼓動が伝わってきたものであった。

「これからは、新生日本建設の原動力たり得たいと思っている。現下の青年は現実に目覚め、空白状態から立ち上がった。私もまた、虚にあって真理を追究する若さ、これをどこまでも育んでいきたいと考えておるのである」

当選からわずか3カ月、当時は衆院本会議場で1人10分間ずつの「自由討議」という時間が設けられ、田中は「民主主義論」を掲げて登壇した。激しいヤジが飛んだが、田中はこれを無視して言った。

時代をかぎ分ける鼻が利くかどうか

「皆さん! こうした自由討議の存在理由は、尽くされぬ論議、隠された意見、少数意見を、遺憾なく発揚することにあります。明朗なる政治、すなわちガラス箱の中での民主政治の発達助長に、資すること大なりと思うものであります。

明治大帝陛下も、よきをとり悪しきを捨てよ、と仰せられましたごとく、他議員の発表はこれをよく聴き、しかして、それに対する賛否は自由なのであります。

おのれのみを正しいとして、他を容れざるは民主政治家にあらず。それもし一歩を誤まれば、戦時下におけるあの抑圧議会の再現を見るのであります。議員は1人というのも、これが背後に15万5000人の国民大衆があって(注:投票総数対当選総衆院議員数比)、(この私の発言もまた)まさに国民大衆の血の叫びなのであります!」

この演説を多としたのが、すでに第1次内閣で首相を務め、「ワンマン」の異名をとっていた吉田茂であった。リベラルな思考の持ち主であった吉田は、かねがね「政治家の資質として一番大事なものは、時代をかぎ分ける鼻が利くかどうかだ」と口にしていたが、ここで田中は炯眼の吉田に認められたということだった。

時に、吉田は池田勇人、佐藤栄作など有望な官僚出身者を集めた〝保守本流〟を自負する「吉田学校」の校長でもあった。

吉田は、声が大きくいささか品性に欠けているものの、元気のよさも手伝って「チョビひげ野郎」の異名もあった田中が、このリベラルな民主主義論を展開することに感心。昭和23年10月の第2次吉田内閣発足とともに、法務政務次官のポストを与えたのだった。

これを機に、田中は「吉田学校」〝十三奉行〟の一角を占めることになる。

吉田茂が“バック”にいて怖いものなし

しかし、吉田は一方で官僚出身でもなく、学歴も尋常高等小学校卒で、事業家として成り上がった田中の経歴を調べたあと、問わず語りに、政務次官人事担当であった側近の林譲治副総理に漏らしたといわれている。

「あいつは若いけど、なかなかキレる男だ。ただ、刑務所の塀の上を歩いているようなところが気になる。大丈夫か…」

その後、首相となった吉田から法務政務次官に抜擢された田中は、いささか有頂天になっていた。当時を知る新潟県刈羽郡西山町の江尻勇・元町長は、筆者にこんなエピソードを語ってくれた。

「県教育界からの要望、陳情で、田中とよく会っていた。田中は、そのたびに文部省に同行してくれたが、こんなこともあった。一緒に文部省へ行くと、田中はツカツカとわが者顔で文部事務次官室に入っていくんだ。次官の机の上には、陳情の書類が山のように積まれている。

田中はそれを1枚1枚めくって、その中から私の陳情書を見つけ出すと、さっと一番上に置いてしまうんだ。それを見ていた次官に、『頼むよ』の一言だったナ。これで予算化の優先順位は大逆転。このくらいのことは屁のカッパの男だった。官僚、役所に臆するところがまったくない。バックに吉田茂がいたことで、怖いものなしということのようだった」

そうした一方で、若き代議士の田中は、すでに「料亭政治」も身につけていた。東京の花街・神楽坂は、田中が代議士バッジを着ける前の「田中土建工業」社長時代からの〝根城〟でもあった。当時の座敷には、のちに田中が逮捕されたロッキード事件で、やはり名前を連ねた少壮時代の右翼・児玉誉士夫の姿もあったのだった。

「政治は、夜つくられる」とされた時代であった。

(本文中敬称略/Part7に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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