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田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part5~政治評論家・小林吉弥

田中角栄
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

昭和21(1946)年の戦後第1回目の総選挙(大選挙区制)では、候補者の演説は会場を定めた立会演説会のみであったが、新憲法下での初の総選挙となった翌22年4月投票の戦後第2回目のそれでは(中選挙区制)、街頭演説が認められることになった。

これを機に、第1回目の選挙で落選した田中角栄は、街頭へ出るたびに自ら手を差し出して有権者と握手を繰り返し、親近感、安心感を醸す戦術に出た。いわゆる「握手戦術」で、以後、今日まであらゆる選挙で握手をするのが一般的となっているが、今日の「握手戦術」なるものが田中による発案であり、実践されたものだったとはあまり知られていない。

さて、街頭演説が解禁されたことで、田中には思わぬ援軍が現われた。早稲田大学雄弁会の学生であった。前回も記したが、戦後間もなく早大の校舎は荒れ果て、授業どころではなかった。早大側は数々の工事業者を当たったのだが、折から大インフレで、業者は寝ていたほうが儲かることから、すべてに断わられた。

困った揚げ句、ようやくたどりついたのが「田中土建工業」で、工事を頼むと社長の田中が安価で二つ返事で引き受けてくれた。早大雄弁会の学生は、校舎の工事で世話になったその田中社長が選挙に出るのならと、応援を買って出たということだった。

大事なのは“決断と実行”

私事にわたるが、じつは筆者もかつて早大雄弁会に籍を置いたことがあり、その大先輩に、のちに日本経済新聞社社長となる新井明がいた。その新井は時に雄弁会幹事長で、田中への応援団のリーダーを務めた人物でもあった。筆者は新井を取材する機会があった折、このときの話を耳にしている。新井は、こう振り返ってくれたものだった。

「10人ほどで応援弁士団を編成、2月末(昭和22年)に田中さんの選挙区〈新潟3区〉の柏崎市に入った。

田中さんの演説そのものは他の社会党候補などと比べると理論武装では劣勢だったが、この敗戦国をどう立ち直らせなければならないかの情熱は、ひしひしと伝わっていた。『いいと思ったら即実行する。ダメだったら引き返せばいいんだ。大事なのは〝決断と実行〟である。これ以外はないッ』と、力強かった。立会演説会、個人演説会での熱気の凄さが、それを物語っていた。

ただ、柏崎駅前の大通りでやった初の街頭演説は、初めての試みゆえ集まった聴衆は10人ほどにすぎなかった。リンゴ箱の上から降りた田中さん、『新井君、こりゃなかなか恥ずかしいもんだなぁ』と言って下を向いていたのが印象的だった。根は、なかなかシャイな人とお見受けした。

やがて昭和47年7月、田中内閣の誕生をみたが、スローガンはこのときの選挙公約と同じだった。『決断と実行』も、また同じだった。あの応援のときから25年を経て、田中さんのブレない信念に改めて感服したのを覚えてますね」

演説巧みな早大雄弁会学生

脚にはゲートルを巻き、ザブトン帽に学生服の雄弁会学生の演説は、時に民主主義と家族の大事さを語り、時に民族、天皇制を語るなどで、とくに選挙区の若者、青年層の関心を得ることに貢献した。

学生たちはさすがに話術が巧みで、例えば街頭演説のマクラでは、当時の流行歌を引用したこんな演説もあったという。

「皆さーん、いま東京で流行っている歌を知っていますか。『銀座カンカン娘』と『東京の花売り娘』ですよ。青い芽を吹く柳の辻に、花を召しませ召しませ花を…ああ東京の花売り娘。あの甘いメロディーに、皆さんは昔の赤い灯、青い灯の銀座を思い出すでしょう。だが、銀座はまだ、焼けたビルとバラックの街並みだけです。

食うにやっとの東京で、花売り娘から花束を買う人がいるでしょうか。歌の文句の花は花でも、それは進駐軍のための〝夜の花〟と思えば、何となく歌の心が分かるんです。

あの焼野原の東京の復興を支えているのは、皆さんが供出しているお米なんです。青年田中角栄は、新潟の皆さんの底力を背景に、戦災復興と民主日本を築き上げます。どうぞ、田中に投票してください!」(『私の中の田中角栄』田中角栄記念館編・海竜社刊より)

こうした中で、田中の初出馬からの支援者だった柏崎市の古老が、こんな話を残している。

「1回目も2回目も、運動員は全力投球でクタクタだったが、田中ひとりなんとも元気だった。『親方、あんた寝なくて大丈夫か』と聞くと、『なに、のみや蚊に食われん所で一杯ひっかけ、2時間も熟睡すれば平気だッ』だった。夜、その日の運動の反省会などを運動員、支援者幹部らとやるんだが、場所は柏崎駅裏手の女郎屋ということもあった。酒が入り、まぁ田中の独演会で終わるのだが、反省会の結びによくこう言っていたナ。『さぁ、皆さん、そろそろ帰ってええですよ。明日も、またよろしくッ』と。彼らを追い返し、田中のみ、そこにお泊まりというワケだ。バイタリティーは、当時から相当なものがあった」

こうした甲斐あってか、してやったり、田中は〈新潟3区〉(定数5)の3位で当選を果たした。かつて、母・フメが尋常高等小学校しか出ていない息子の将来を案じ、「越後線の駅員にでもなってくれれば」としていたのが、晴れて国政を担うという重責への橋を渡ったのである。

ちなみに、このときの選挙の当選同期には、のちに田中と同様、首相の座に就き、田中との権力抗争を余儀なくされる群馬からの中曽根康弘、岩手からの鈴木善幸がいたのである。

(本文中敬称略/Part6に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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