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タレント・毒蝮三太夫“デカい態度とは裏腹の堅実派”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

毒蝮三太夫
毒蝮三太夫 (C)週刊実話Web

テレビドラマ草創期の1950年代から60年代半ばまでは、俳優として本名の石井伊吉名義で活動していた毒蝮三太夫。66年7月に特撮ドラマの『ウルトラマン』(TBS系)で科学特捜隊のアラシ隊員役を演じたことで、子供たちの人気者となった。

『ウルトラマン』放映中の67年1月、当時、演芸バラエティー『笑点』(日本テレビ系)で司会を務めていた立川談志に誘われ、同番組に座布団運びとして出演。しかし、視聴者から「なんで正義の味方が座布団運びをやっているのか?」という苦情が日本テレビ、TBS両局に相次ぎ、芸名を改めることになった。

「毒蝮」という芸名は、談志が「怪獣にも負けないようにマムシってのはどうだ?」と提案すると、当時の大喜利メンバーだった五代目三遊亭圓楽が、「ただのマムシじゃ面白くねえから毒を付けろ」と言って、そのまま定着したという。また、「三太夫」は以前にある番組で、殿様に扮した談志の家老として、社会風刺や世相巷談を繰り広げていたことで命名された。

座布団運びの大任は、のちに巨漢の松崎真や現在の山田隆夫らに受け継がれたが、毒蝮には彼らと決定的に異なる点があった。松崎や山田はメインの出演者に対して二歩も三歩も後ろに引きながら、ささやかに存在感をアピールしているが、毒蝮のそれは型破りなのだ。

談志と親しい仲ということもあったが、対等な口をきくどころか時には大声を張り上げ、落語家連中を威圧する。その態度の悪さたるや、座布団運びのそれではない。頑丈な体、四角い顔、太いまゆ、野太い声…それらが無類の愛嬌となっているところが、彼の魅力であり、人気の要因だった。

「ババア、まだ生きているのかァ」

毒蝮の命名と『笑点』での活躍は、年配者相手の毒舌トークの原点だ。69年に放送がスタートした『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』(TBSラジオ)は、現在もなお続く長寿番組である。お年寄りをつかまえて「ババア、まだ生きているのかァ」と毒舌を吐いても、それが一種の芸になっているあたり、人情味あふれるパーソナリティーの賜物だろう。

そのダミ声というか悪声は、麻雀を打っていてもいかんなく発揮される。とにかく、ほとんどしゃべりっぱなしなのだ。

「おい、ちょっと待てよ」

「こっちが来ちゃったよ」

「ありゃ、大変だ、大変だよぉ」

にぎやかなこと、この上ない。たまに静かなときがあると、逆に他のメンバーが心配するほどだ。

ある時の実戦で毒蝮は、南場2局の西家8巡目で、南が暗刻、中が暗刻、筒子が一、二、三、三、五、索子が一、三のところへ、五筒ツモ。

ここで三筒を切ればテンパイだが、ホンイツ役が消えて、アガっても安い。私なら文句なしに、三索、一索切りで、筒子のメンホン狙いに出るところだが、

「えい、うるさいからリーチだ…」

と言いながら三筒を切り飛ばして、カン二索でリーチと出た。

この手はイーシャンテン戻しの三索切りで、次に二筒か一筒、あるいは五筒ツモなら、メンホン手になり、さらにイーペーコー、あるいは三暗刻にもなる。ヤミテンでも最低で満貫、うまくいけばハネ満にも倍満にもなる可能性があった。

態度と声はデカいが案外と打ち筋は堅実で、大きなレートだと手が震えてしまう。毒蝮は愛すべき小心者でもあるのだ。

誌上対局で見せた真の実力

もう40年ほど前になるだろうか。毒蝮のほかに高松しげお、古今亭志ん馬、小野ヤスシの4人で雑誌の対局があった。

半荘2回戦。ただし、ノーレートで打つこと、というのが決めであった。

毒蝮「対面同士握るのもダメなの?」

志ん馬「まぁ、そうガツガツしないで、取材に協力しなさいよ」

毒蝮「差しウマもダメ?」

さんざん悪態をついたものの認められず、仕方なくゲームが開始された。

実力的には高松がやや優勢で、残り3人が紙一重で続く…そんな対局前の予想だったが、なんと、毒蝮が真剣に打っている。

1回戦、南2局西家でラス目の高松が、12巡目にリーチをかけて出た。ラス目のリーチだけに安かろうはずがない。

毒蝮も中をアタマに、七、八、九の三色で、カン三萬のテンパイ。この時点までトップを走っているのだから、当然、追っかけリーチかと思ったが、ツモってきた四筒を手中に残し、中のトイツ落としに出ている。

しかし、まったくベタオリしたわけではなく、最後は四筒タンキで受けるという打ち回し。高松の待ちは四、七筒だっただけに理想的な展開で、毒蝮が1回戦のトップをものにした。

2回戦、東場4局、親の毒蝮に軽い手が入り、西が頭でカン二筒のテンパイ。2巡後に三筒ツモ、シャンポンに取るかソバテンかだったが、三筒切りでリーチをかけた。すると、一発で二筒が出て7700点でロン、結果、このアガりでツキがきて2連勝を果たした。

本来、真剣な読みと、リーチのタイミングなど技量で勝ったのだが、「ノーレートだからこそ毒蝮が勝てた」というのが、負けた3人の言い分であった。

(文中敬称略)

毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)
1936(昭和11)年3月31日生まれ。48年に舞台『鐘の鳴る丘』で子役デビューし、高校在学中は東宝や大映の青春映画に出演していた。60年代半ばに俳優、タレントとして脚光を浴び、以降はテレビ、ラジオに欠かせない存在となる。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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