
「当選するとおだてられ、その気になっていたら落ちてしまった。まさに、不徳の致すところです。自分の力が足りなかったことが分かった。次の選挙に出ねばならんから、早くこの裁判は終わらせたいと思っているッ」
昭和21(1946)年4月11日開票の戦後初の総選挙に初出馬したものの、次点、落選となった田中角栄は、うなだれる支持者を前にこう力説した。ここでの「裁判」とは、無理を重ねた陣営から選挙違反者が出てしまい、新潟県・長岡地裁での審理が始まろうとしていたことを指す。「岐路」に立ったとき、早く頭を切り替えて一歩を踏み出すのが、若い頃からの田中の持ち味だった。
その「次の選挙」は意外に早くやって来た。田中にとって、それは〝追い風〟でもあった。
まず、昭和21年1月にGHQ(連合国軍総司令部)が発した「公職追放令」により、とりわけ田中が初出馬した日本進歩党から該当者が多く出たため、同党が候補者難に陥り、再出馬への障害が取り除かれたことが幸いした。
同時に、新憲法としての「日本国憲法」施行が昭和22年5月3日に控えており、この年2月1日に予定されていた「2・1ゼネスト」には、マッカーサーが中止命令を発していた。それについて、改めて民意の判断にゆだねるとして、4月25日投票での戦後第2回目の総選挙となったのである。
そして、この選挙から選挙制度も変わり、大選挙区制から選挙区が細分化され、田中のそれは新潟県の長岡市、南北の魚沼地方などを含めての〈新潟3区〉(定数5)となった。
田中角栄が導入した「握手戦術」
頭の切り替えの早い田中は、この選挙では戦術を一変させ、まず、〝人任せ〟を改めた。
事業で儲けたカネがあるのをいいことに、票集めのために各地の重立ち(有力者)や陣営の幹部などに存分にカネを使わせたが、一部の重立ちは現在なら5000万円ほどのカネを受け取ったのをいいことに、票集めどころか花街で芸者をあげての連日のドンチャン騒ぎに明け暮れていた。
陣営の幹部もまた、懐が温まったことから、これを〝原資〟に選挙戦の途中、自らが田中に対抗する形で立候補してしまうなどで、何かと〝水漏れ〟の多い戦術だったことを反省したということだった。
新しい戦術は、大きく二つであった。
一つは、他の候補者にはない徹底した「握手戦術」を採ったことであった。戦後第1回目の選挙を含めて、どの候補者もほとんど有権者と握手するという戦術は採らなかったが、田中は積極的にこの手を使った。
かつて、田中の最強後援会「越山会」の南魚沼郡連絡協議会の幹部として、田中票の取りまとめに奔走した小倉康男という人物が、次のような証言を残している。
「田中さんは聴衆がいると、街宣トラックから降りて、ジイサン、バアサン、若者など、誰彼問わず握手をしていた。それも、ちょっと片手を出して握るのではなく、必ず右手で相手の手を握り、左手でそれを包み込むようにする。有権者には、その手のぬくもりが信頼感、安心感に通じたということだった。
風体もまだ30前なのに、茶系統の三つぞろえの背広を着て、口ひげを生やし、声も渋く大声だったので、40歳ぐれェに見え、貫禄はあったナ。初出馬のときは演説中に野次をもらうとよく言葉に詰まっていたが、2回目のときは野次を飛ばした奴のところへ行って、『静かに聴けッ』と一喝していたくらいだった。まぁ、有権者には頼もしく見え、特に青年層の支持が高かったのが特徴だった」
「みなさんッ、必要なのは家族ですて」
新しい戦術の二つ目は、運動員として早稲田大学雄弁会の学生の応援を得た点であった。
じつは、早大生と田中には接点があった。戦後間もなく、早大の校舎は荒れ果てていたが、田中が社長の「田中土建工業」に工事を頼むと、安価で二つ返事で引き受けてくれた。その社長が選挙に出るなら、今度はお返しということで、雄弁会の学生がわざわざ応援に駆けつけてくれたということだった。
田中の演説は、この第2回目の選挙でも「みなさーん、新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなるのであります!」との〝三国峠演説〟と、ポスターにも入れた「若き血の叫び」が主体だったが、ザブトン帽の学生たちの演説は気が利いていた。
他の与野党候補の多くが語る「農村改革」「議会主義の必要性」などの硬い話は避け、演説は次のようなものであった。
「みなさん! いままさに、この国は国破れて山河あり。これからの日本にとって大事なことは、何より家族ということであります。家族の延長線に民族があり、その象徴としての天皇制があるんですッ」
いささか論理の飛躍もあったが、これを耳にした田中は、戦後間もない混沌の時代に「家族」という言葉を使う学生に大いに感心し、さっそく越後弁も交じえた自らの演説に取り入れたのであった。
「みなさんッ、いま一番大事なのは家族ですて。家族を大事にしねぇと、日本はようなりませんよ。家族、何よりも家族が大事なのであります!」
選挙戦中盤には、トラックの荷台から手を上げていると、第1回目の出馬時とは違い、道端の子どもたちが「おーい、若き血の叫びが来たぞ」と叫びながら追いかけてくるといった具合だった。
何事にも全力投球、手抜きなしの田中は、知名度が確実に上がったと確信し、初めて当選への手応えを感じたのであった。
(本文中敬称略/Part5に続く)
【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。
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