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寿司屋で飲んでいるとイチローが…~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

前回、東尾修さんとの出会いについて触れましたけど、所沢に住むようになってからは、東尾さんは投手として大活躍していたし、俺も漫才ブーム真っ只中だった。お互いに忙しいから、なかなか時間が合わなくて、会えなかったんですよ。でも、漫才ブームが一段落した1990年代に入ると、俺も暇になってね。ちょうどその頃、東尾さんが西武監督に就任したんです。その頃はしょっちゅう飲みに行ってましたよ。

野球が本当に好きな人なら分かると思うんですけど、やはり試合前の練習から見たいんです。それで西武の試合を練習から見に行くと、東尾さんが「洋ちゃん、ジャージに着替えて」と言うから、不思議に思って「なんで?」と聞き返すと、「一軍は球拾いする人が少ないから外野で球拾いして」と。俺は芸人ですよ(笑)。

東尾さんは、俺のほうが学年だと1つ上だから「洋ちゃん」と呼ぶんですよ。俺が野球をやっていたことも東尾さんは知っていたからだと思うけどね。それからは時々、芸人の俺が西武の練習で球拾いをすることになったんです。午後5時すぎくらいになると、お客さんも入ってくるでしょ。漫才ブームで世間に顔がバレているから、中には気がつく人もいるんですよ。

「洋七さん、何しているんですか?」

「アルバイトや」

そう答えていました。選手とも会話するようになって、「今日も球拾いしてくれるんですか?」と声を掛けられてね。しばらくすると球拾いだけじゃなくて、外野に飛んでくるボールをキャッチするようにもなった。その時に感じたのが、フリーバッティングでの外国人選手のすごさ。たとえばレフトで球拾いしていて、フライかなと思って落下地点を予測して構えていると、球がグ~ンと伸びてスタンドに入る。フリーバッティングの6~7割はホームランだったんじゃないかな。

あんなにすごい選手になるなんて…

球拾いが終わると、俺は家へ帰ってシャワーを浴びるんです。それで西武の試合が終わった頃に、俺がよく行っていた寿司屋さんで待っていると、東尾さんが球団のマネジャーと一緒に来て、飲むことが多かったね。当時、東尾さんの自宅は都内にあったけど、所沢までは遠いでしょ。だから、所沢に住んでいたんです。一人暮らしだと晩飯を作るのも大変。それでよく飲みながら晩飯を一緒にしていたんですよ。

一度、いつものように東尾さんと寿司屋で飲んでいたら、体の細~い若い客が入ってきた。それがイチローだったんです。まだ有名になる前のね。その店は所沢では美味しくて有名だったから来たんだと思うけど、あんなにすごい選手になるとは思わなかったね。

俺が佐賀へ引っ越してからは、連絡することも少なくなったけど、10年くらい前かな。所沢の思い出の地を東尾さんと2人でドライブするというBS朝日の番組で一緒になったのが最後かな。

大阪では、野球選手と芸人は仲が良かった。よく南海の選手が花月に遊びに来ていたしね。でも、イメージと違ってシーズン中は、そんなに飲まないんですよ。次の日も試合だからね。

それが、いろんな野球選手と仲良くさせてもらって驚いた点ですね。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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