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藤波辰爾「我々は殺し合いをしてるんじゃない!」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

藤波辰爾 
藤波辰爾 (C)週刊実話Web

藤波辰爾は「迷言」の多いレスラーである。

新日本プロレス社長時代には「こんにゃく」とあだ名されたように、生来の人柄の良さから優柔不断な面があり、気持ちがまとまらないまましゃべってしまうのが、その原因であろう。

1999年1月4日の東京ドーム大会、格闘モードの小川直也になすすべもなくKOされた橋本真也は(結果は無効試合)、同年10月11日の対戦でもTKO負けを喫した。

「引退を懸ける!」との覚悟で臨んだ2000年4月7日、東京ドーム大会における両者の対決は、『橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退SP!』と題されて、ゴールデンタイムで生中継された。

大一番を迎えて「引退を懸ける以上、橋本の負けはない」と考えるファンは多かった。八百長うんぬんの話ではなく、「プロレスとはハッピーエンドで終わるものだ」というのが、当時の共通認識だったからだ。

それでも小川の勢いはすさまじく、「橋本が勝つとしてもどうやって?」「不透明な決着にならなければいいが…」とファンも期待半分、不安半分で試合を見守ることになった。

しかしながら、結果は大方の予想に反して、小川がSTOの6連発で完全勝利。試合後に橋本は辞表を提出した…。

後年になって「もともとは橋本勝利を予定していたが、猪木が『そんな予定調和ではつまらない』とひっくり返して、小川勝利の筋書きとなった」「橋本敗退を前提にテレビ朝日のバラエティー班が、橋本復帰を願う折り鶴兄弟などの演出をした」という証言も出てきたが、ともかく割を食ったのは橋本である。

新日社長だった藤波が解雇を決断

8月23日、橋本は100万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明。10月9日の東京ドーム大会では、佐々木健介と川田利明の団体対抗戦がメインに組まれたが、その第1試合で藤波辰爾との復帰戦に勝利した。

また、橋本は復帰直後から、団体内に別働部隊『新日本プロレスリングZERO』の立ち上げ準備を始める。これは引退から復帰に至るまで、一連の橋本の働きに対する褒章の意味があってのことだった。

ところが急転直下、復帰戦からわずか1カ月後の11月13日付で、橋本は新日に解雇されてしまう。

新日としては、『ZERO』はあくまでも社内の一部署という認識だったが、橋本はまるで「自分が旗揚げした団体」のごとく経費も含めて独走を始め、ついには『プロレスリング・ノア』との交流戦の交渉を始めたことが解雇につながったとされる。

新日は全日本プロレスとの交流戦を始めたばかりで、全日からするとノアは裏切り者。そんなノアとの交流は全日への仁義を欠くとして、橋本は現場監督の長州力と対立し、さらに全日からも突き上げを食らったことで、当時、新日社長だった藤波が解雇を決断したという。

しかし、その橋本を解雇からわずか2カ月後、01年の1・4東京ドーム大会に参戦させることになったから、話がまたややこしくなってくる。

この頃、新日社内には橋本の扱いについての統一見解がなかったようで、「12月に橋本のノア参戦が決まり、全日の手前もあって新日所属では出せないため、形式的に一時解雇しただけ」との見方もあった。

ドーム大会で組まれた長州との試合は、「遺恨凄惨」と銘打たれた。しかし、長州との対立はあったかもしれないが、現実にクビ切りを宣告したのは藤波である。どうにも中途半端な状態で、遺恨マッチ風に振る舞わなければいけないのだから、両者ともにやりづらかっただろう。

伝説として語り継がれる「ドラゴン・ストップ」

肝心の試合は橋本がチョップと蹴り、長州がパンチとラリアットを繰り出し続ける打撃戦となったが、いわゆる「激しいプロレス」の範疇であった。

だが、解説席の山崎一夫がゲスト解説の藤波に、「つぶし合いになっちゃいますよ!」「止めたほうがいいですよ!」などと緊張感を煽り始める。確かに、相手を倒してもフォールにいかないのは異様であったが、橋本VS小川戦の緊迫感と比べれば、とても「つぶす」ようなものでないことは、少々目の肥えたファンなら承知していた。

すると、しばらく試合の行方を見守っていた藤波は、両腕をバツ印に交差させてレフェリーに試合中止をうながすと、リングにのぼってマイクを取った。

「我々は殺し合いをしてるんじゃない! 分かってください!」

いったいどこで殺し合いが行われているのか、啞然とするファンを尻目に、試合はあっさり終了となった。

おそらくは試合の組み立てから幕引きまで、すべてが予定内であったのだろう。しかし、互いに「つぶす」ほどの気持ちがないのは明白で、藤波社長の「迷マイク」だけが「ドラゴン・ストップ」として、後々まで語り継がれることになったのである。

《文・脇本深八》

藤波辰爾
PROFILE●1953年12月28日生まれ。大分県国東市出身。身長185センチ、体重108キロ。 得意技/ドラゴン・スープレックス、ドラゴン・スクリュー、ドラゴン・スリーパー。

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