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田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part1~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『人生の岐路――“角栄流”乗り切り方の極意』Part1~政治評論家・小林吉弥
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

「俺は政治の世界に足を踏み入れはしたが、事業家でも自信はあった。大財閥になるくらいの自信はあったものだ」

尋常高等小学校卒で政界の頂上、総理大臣として天下を取った田中角栄が、そう豪語したことがある。

小学校を出たあとは、頭脳極めて優秀にもかかわらず、家を助けるために働きに出た。土木工事の下働きなどで賃金を得ながら、人生の夢を懸け、15歳で単身上京。昼間は汗まみれになって働き、夜はいくつかの学校を掛け持ちしながら、学問を身につけた。学校に間に合うよう自転車のライトをつけ忘れて疾走し、警官に捕まって大目玉を食らったこともある。

結果、努力と持ち前の才覚で独立を果たし、やがて土木建築、機械設計を業務とする「田中土建工業株式会社」を設立、1942(昭和17)年度の年間施工実績では、全国50位内にランクされるほどの成長を遂げた。

時に、わずか24歳、なるほど事業家としてこのまま突っ走っていれば、冒頭の言葉にあるように「大財閥になるくらいの自信はあった」のも、うなずける話である。こうした田中の人生を改めて振り返れば、曲がり角の多い「岐路」の連続であった。

田中は、その「岐路」をどう乗り切ったのか。事業家から政治家への道に足を踏み入れた覚悟などを検証する前に、読者諸賢には次のような、いささか謙遜したようにも響く田中の言葉に耳を傾けていただきたい。

そこには、常に前向き、多少は強引に人生を切り拓いていった人物ではあったが、一面で世の流れに身をゆだねる「運命論者」でもあり、また、人生に壁が立ちはだかったときには、自ら運命を変えてみせるという自信、粘り強さ、努力が垣間見られるのである。言うなら〝硬軟〟自在に運命と向き合いながら、生き抜いてきたということである。

「議員というのは、努力、勉強すれば、大臣、幹事長までにはなれる。しかし、総理大臣となると、そういうわけにはいかない。運のない奴はなれない」

「まあ、よく考えれば、僕は運だけでここまで来たと思っている。人の一生というのは、やはり運じゃないかな。実力があり、いくら自負しても、ダメなものはダメなんだ。結局、残るのは努力だろう。努力、根気、勉強の積み重ね、こういったものが運をとらえるきっかけになる」

人生最大の「岐路」政治家への“転身”

さて、田中にとって最大の人生の「岐路」は、事業家として大成の道を歩むさなか、政治家への〝転身〟であった。その決断ぶりと、山あり谷ありをどう乗り切ってきたかを、新事実の発掘で検証してみることにしよう。

すでに結婚し、妻・はなとの間に長男・正法(昭和22年、5歳で病死)、長女・真紀子(のちに外相)をもうけ、先に記した「田中土建工業」は順風満帆であった。

当時の新興財閥である理化学研究所(理研)コンツェルンの総帥で、人格、識見で世に知られていた大河内正敏(東京帝国大学教授、貴族院議員などを歴任)の信頼と知遇による仕事も多かった。この理研の依頼で朝鮮での工場移転事業を請け負って渡鮮、終戦をここで迎える中、相当のカネを動かして帰国を果たした。

こうしたさなか終戦の年(昭和20年)の11月、「田中土建工業」の顧問だった日本進歩党幹部・大麻唯男から、政治献金の無心を受けることとなった。当時、田中土建には大麻ら3人の顧問がおり、のちに、死刑廃止論を掲げるなどリベラル派弁護士として知られる正木亮も、顧問として加わることになる。

ちなみに、この正木が田中に小佐野賢治を引き合わせ、のちには田中と小佐野は「刎頸の友」などと喧伝されることになる。

さて、時にまだ終戦から3カ月だったが、花街の料亭はぼちぼち客を取り始めていた。大麻は新橋の『秀花』に羽振りのいい田中を呼び出し、ズバリ、こう切り出した。

人心収攬術に「10倍の哲学」

「田中しゃん。じつはGHQ(連合国軍総司令部)の命令により、近々に衆議院の解散・総選挙が決まっておる。ために、われわれは大日本政治会を解散し、新しい政党で戦うべく日本進歩党を結成した。しかし、この総裁候補に2人が名乗りを上げ、双方一歩も譲らない状態となっておる。やむなく、党としては選挙資金などの必要性から、早く300万円をつくったほうを総裁とすることを決めた。自分は町田忠治を推しておるのだが、なんとか融通願えないものか…」

大麻の目をじっと見ていた田中は、二つ返事でこう言った。

「ええですよ。私が100万出しましょう」

当時の100万円は、現在なら5億円ほどに相当する。27歳、若き社長は難しいことを一切言わず、ポンと5億円を出すことを約束してくれた。大麻は目を見張ったが、これこそカネを有効に使う田中の〝極意〟だったのだ。

田中の「10倍の哲学」によれば、誰もが撒くような金額では平凡、2倍撒けば相手の関心はやや高まる。しかし、目の前に予想もしない10倍のカネを積まれたらどうなるか。必ずや相手は目をむき、人間は驚くと対象物を凝視するという性癖をあらわにする。

すなわち、ここまで俺に関心を持ってくれるのかというショックが、いつまでも心に残って離れず、忘れられない人物になるということである。

田中におけるこの「10倍の哲学」は、のちのちまで政界での「岐路」を乗り切るため、重要な〝手段〟となっていったのである。

(本文中敬称略/Part2に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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