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工藤会(五代目工藤會)野村悟総裁に死刑判決!2019年本誌独占掲載の「獄中手記」⑧山口組の“代理戦争”に発展

工藤會・野村悟総裁 (C)週刊実話 無断転載禁止 
工藤會・野村悟総裁 (C)週刊実話 無断転載禁止

こうして工藤派と草野派の対立は、より激しく銃弾が飛び交う事態となっていく。「北九州戦争」である。

工藤・草野双方の事務所や関係者が狙われていく中、昭和56年2月4日深夜に決定的な事件が起こる。

小倉の繁華街・堺町の路上で、工藤会理事長で矢坂組・矢坂顕初代と、草野一家若頭で初代大東亜会・佐古野繁樹会長が偶然にも鉢合わせしてしまったのだ。それぞれ若い者を5人連れており、酔いもあってか口論から壮絶な銃撃戦に発展し、矢坂理事長、佐古野若頭の双方が亡くなる。

これを受けて、「見舞い」と称して工藤会側には九州の反山口組系組織の幹部が、草野一家側には兄弟分の伊豆組長など山口組系幹部が、続々と小倉市内に集結。代理戦争の様相も呈してしまったのだ。

ところが、危機を憂慮した関東の大親分が仲裁に入って、3週間ほどで和解が成立し、手打ち式が行われた。

双方の組織が合併するのは、さらにのちの昭和62年6月であった。工藤玄治総裁、草野高明総長、溝下秀男若頭、そして私、野村悟本部長による「初代工藤連合草野一家」が発足。1000人規模の九州一の組織となって、ヤクザ業界を驚かせることになる。

恩讐を超えた必然の絆

反山口組と親山口組に分かれていた私たちが再び合流するのだから、それはもういろいろあった。街中での銃撃戦も起こっており、暴力団追放運動もたびたび話題になった。だが、最終的には、ようやく「わだかまりを捨てて合流しよう」となったのだ。

もちろん、工藤初代から「溝下と盃を交わせ」と言われた時は正直困惑した。初代としては「合流の礎となれ」との思いからなのだろうが、溝下先代は新太郎親分の仇である。だが、もし私が先代に対して面従腹背の態度を取ったら、周囲に必ず知れ渡り、若い者が盃を甘く見てしまうだろう。

盃がどれだけ重いものかを若い者に示すためにも、私は先代が亡くなるまで第一の子分として仕えたつもりである。溝下先代も、こんな私を認めてくれたからこそ、後継に指名してくれたのだと思う。

工藤会と草野一家の合流の過程で、溝下先代と私は、愛憎の関係に始まり、最後は恩讐を超えた必然の絆で結ばれていたと考えている。こんな私たちの姿をしっかりと見て学んでいた田上文雄を、五代目に指名することになる。

そして、私は同じ昭和62年の秋に、二代目田中組を継承していた木村清純親分から田中組三代目を襲名するように言われた。これについても、いろいろ思いがあったのだが、謹んでお受けしたのである。

こうやって、少しずつ組織がまとまっていった。

《組織の合同は、北九州の極道のことを考えれば、至極当然の成り行きですたいね。まとまらんで反目しおうとったら、衰退するばかしやないですか》(書籍『任侠事始め』より 太田出版刊)

溝下先代は、当時のことを作家・宮崎学先生との対談で、こう振り返っている。その通りではあるが、簡単ではなかった。溝下先代だからこそできたのである。

平成2年には、初代工藤連合草野一家が代替わりして、二代目工藤連合草野一家(工藤玄治名誉総裁、草野高明総裁、溝下秀男総長、天野義孝総長代行、野村悟若頭)となり、平成11年には三代目工藤會(溝下秀男会長、天野義孝会長代行、野村悟理事長)に改称。翌12年、四代目工藤會を私が継承し、溝下先代は総裁職に就いた。

私が総裁を務める現在の五代目工藤會(田上文雄会長、本田三秀会長代行、菊池啓吾理事長、木村博理事長代行)は、平成23年にスタートしている。

今では工藤初代をはじめ多くの方が鬼籍に入り、私も古希を迎えた。これから、ヤクザの受難の時代がどうなっていくのか。獄中からではあるが、見守っていきたいと思っている。

逮捕から5年、ようやく公判が開かれることになった。裁判のことは弁護団に任せてあるので、特に書くこともないのだが、今回の起訴内容について、私は無実であることは改めて書いておきたい。

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