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工藤会(五代目工藤會)野村悟総裁に死刑判決!2019年本誌独占掲載の「獄中手記」⑦山口組との兄弟盃で空気が変わった

工藤會の組旗 (C)週刊実話 無断転載禁止 
工藤會の組旗 (C)週刊実話 無断転載禁止

工藤會と私の歴史について、思えばいろいろなことがあった。

のちに二代目田中組組長となる木村清純親分から私が盃を受けた頃は、すでに工藤組は九州では知られた存在であった。その中でも傘下の初代田中組・田中新太郎親分はスラリとした男前で気っぷがよく、孫分にあたる私も憧れたものである。

あの頃は、自分が三代目田中組を継承するとは、想像すらしていなかった。昔はスターのようなヤクザが多かったが、特に小倉のヤクザは全国的に見てもレベルが高い気がする、と書いたら身びいきが過ぎるだろうか。

新太郎親分が注目されるのは、昭和38年の「紫川事件」以降である。

九州に侵攻を始めていた田岡一雄三代目率いる山口組との対立により、山口組関係者2名が殺害された。殺人教唆の疑いで逮捕され、草野高明若頭(のちの工藤會二代目)は服役。草野若頭が留守となった工藤組を守ったのが、若手ホープの新太郎親分だった。

獄中で訃報を聞き怒り狂った

工藤玄治初代に累が及ばないようにとの思いで、草野親分は獄中から独断で脱退を表明したが破門となり、当然ながら出所した時には組からの迎えはなかった。だが、対立していたはずの田岡三代目が放免祝いを申し出て、草野親分も好意を受けたことから、さらに工藤派と草野派の対立は深まってしまう。

特に草野親分が出所したのちの昭和53年10月に草野一家を立ち上げ、翌年12月には山口組系の伊豆組・伊豆健児初代と兄弟盃を交わしたことで、空気が変わっていく。この結縁式に出席しなかった工藤派の新太郎親分が、なんと2日後に射殺されてしまったのだ。

ヒットマンは、草野一家傘下で溝下秀男親分(のちの工藤會三代目)が率いていた極政会の若い者であった。銃撃の原因は、工藤初代ですら出席した結縁式に、新太郎親分が出席しなかったことや、少し前に溝下親分が襲撃されて2週間のケガを負ったことへの報復だったといわれている。

この時、私は別件で服役しており、獄中で訃報を聞いて途方に暮れ、怒り狂い、荒れた。

「野村、跳んだら(ケンカをしたら)イケんぞ」

私の様子を見て刑務官が心配したが、私は我慢できず獄中にいた草野一家の者たちをぶちのめしてしまった。獄中で官(所長から刑務官まで施設側の人間)に媚びたり、対立組織の者に気合い負けしたりしたら、ヤクザは終わりなのだ。

工藤會・野村悟総裁「獄中手記」⑧に続く

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