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工藤会(五代目工藤會)野村悟総裁に死刑判決!2019年本誌独占掲載の「獄中手記」⑥溝下先代の「アルマーニ事件」

工藤會・溝下秀男先代の遺影と野村悟総裁 (C)週刊実話 無断転載禁止 
工藤會・溝下秀男先代の遺影と野村悟総裁 (C)週刊実話 無断転載禁止

私は組に入ることで、自分で賭場を仕切れるようにもなったのであるが、私が田中組に入ってしばらくしてから、バクチの主流はホンビキからタブ賽に変わっていく。

これは、真ん中に穴を開けた鉢と3つのサイコロを使うもので、勝負が早く、時代のスピードにも合ったのではないかと思う。高度成長期後半でバブル経済に向かっていた昭和50年代は、景気のいいシロウト衆も賭場に出入りするようになっていた。薄暗い賭場で、ヤクザがイカサマをしてシロウトをたぶらかす時代は、終わりつつあったのである。

何もかもが大衆化され、我々の業界も上げ潮の時代となり、私は相変わらず大勝ちしたり、大負けしたりしていた。もちろん、負けた時には親の土地を売って穴埋めした。そうした中で、小倉のヤクザは抗争の時代を迎えることになる。

きっかけは「紫川事件」(山口組系組員による銃撃の報復として、工藤組系組員らが別の山口組系組員を惨殺。地元の紫川という川に遺体を投げ込んだ事件)であった。昭和38年、小倉南区の紫川に山口組系の組員2人の遺体が遺棄されたのだ。

この事件で、当時の工藤組系草野組・草野高明組長が首謀者として逮捕され、獄中から工藤組脱退と草野組解散を発表する。

当時の主だったヤクザが次々に逮捕されていた「第一次頂上作戦」で、工藤親分に累が及ばないようにという草野親分の配慮であったが、独断であったために工藤親分が激怒し、草野親分を破門してしまう。

これが、のちのちまで「工藤派」と「草野派」の骨肉の争いが続いた原因である。もとは同じ組織であったことで、対立抗争はより悲惨になってしまった。

抗争の歴史や、溝下秀男先代の恩讐を越えた工藤會の立ち上げについては次回以降に譲るが、分裂した組織を再び一つにまとめた溝下先代は、稼業入りした当時から「逸材」と言われていた。

「おい、そのズボンは何か」

先代が溝下組を率いて草野一家入りしたのは33歳の時で、私よりも遅い稼業入りだった。

若い頃に賭場荒らしをしていて、草野親分にいさめられたのが縁で草野親分の盃を受けることになったのだが、博奕は嫌いだった。荒らしに行ってカネだけ取っていたのだ。

だから、溝下先代は私の博奕好きも快くは思っていなかった。直接、私に文句は言わず、田上に「困ったもんよのう」などとグチっていたらしい。そして、茶目っ気もあり、負けず嫌いでもあった。「アルマーニ事件」などは今でも思い出し笑いをしてしまう。

だいぶ前だが、ある直系組長が当時、流行っていたイタリア高級ブランドのジョルジオ・アルマーニの洒落たズボンをはいているのを、先代がめざとく見つけたことがあった。

「おい、そのズボンは何か」

「アルマーニというブランドです。親分はご存じなかですか?」

ちょっと自慢気に言われた先代は激怒した。

「何か! そんな南蛮のモン! 日本人なら日本のモンをはかんか!」

叱られた組長は、しかたなく事務所では国産を着るようにしたが、ある日気づくと、先代が澄ましてアルマーニでキメていたという。しかも、「やっぱりアルマーニはよかね」と講釈までたれていたそうだ。

「いやー、あんときは驚きましたばい」

組長は、笑いながらこう言っていた。先代にまつわるこんな話は枚挙にいとまがない。いろいろな意味で伝説的だったのである。

工藤會・野村悟総裁「獄中手記」⑦に続く

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