アウトロー

工藤会(五代目工藤會)野村悟総裁に死刑判決!2019年本誌独占掲載の「獄中手記」⑤工藤組がなんぼのもんか

工藤會・野村悟総裁(右)と田上文雄会長 (C)週刊実話 無断転載禁止 
工藤會・野村悟総裁(右)と田上文雄会長 (C)週刊実話 無断転載禁止

現在の工藤會の前身は、昭和24年に福岡・旧小倉市で工藤玄治親分が立ち上げた「工藤組」である。

小倉市は、昭和38年に若松市や八幡市などと合併して北九州市となり、北九州工業地帯を中心に産業も多く、豊かでにぎやかな街である。工藤初代は生粋の博徒で、その俠ぶりは大したものであった。

山口県下関市の合田一家の初代・合田幸一親分や、稲川会初代の稲川聖城総裁とも親しく交流していた。私は工藤初代からも指導を受けることができた身であるが、のちに三代目田中組を継承したのも工藤初代の鶴のひと声があったからだ。

「野村、自分で自分を決めたら(評価したら)つまらんぞ。他人が決めることやからの」

この工藤初代の言葉が、今も心に残っている。

そして、初代工藤組の若頭で二代目工藤組となる草野親分も博徒らしい博徒で、惚れ惚れする男前であった。賭場での所作も堂々としており、とても勉強になった。

とはいえ、私はヤクザになる気などなかった。何不自由なく生まれ育ち、家業を手伝うこともなく博奕に明け暮れていたので、ヤクザになる理由などなかったのだ。賭場で工藤組の関係者を見かけても、むしろ「工藤組がなんぼのもんか」くらいに思っていた。まさに気分は「一本独鈷」である。

「ボク、もう少し大きくなったらおいで」

一方で、博徒としての道を極めたいとも考えるようになっていた。そこで出会ったのが、のちに工藤組系二代目田中組を襲名する木村清純親分である。工藤組にしては珍しく東京の大学を出ており、服装も所作も東京仕込みで垢抜けていた。

この清純さんは博奕も見事に強かった。当時の博奕の主流はホンビキ(手本引き)といって、6枚の札の中から「親」が選んだ札を「子」が推理するのだが、心理戦であり究極の博奕ともいわれた。

私もこのホンビキにハマり、十代の頃から小倉だけでなく博多や大阪、京都、東京にも出張って賭場を回っていたほどだ。

こうしてほとんど運命的に私は清純さんに出会い、ホンビキを習ううちに若い衆としてヤクザ人生を歩むことになった。ただし、清純さんから盃をもらったのは、26か27歳の頃であり、ヤクザとしてのスタートは遅いほうである。

ちなみに、五代目工藤會会長の田上文雄は16か17歳で当時の工藤会の門を叩き、「ボク、もう少し大きくなったらおいで」と言われたそうだ。

工藤會・野村悟総裁「獄中手記」⑥に続く

あわせて読みたい 工藤會・野村悟総裁「獄中手記」