アウトロー

工藤会(五代目工藤會)野村悟総裁に死刑判決!2019年本誌独占掲載の「獄中手記」③広大な土地持ちの裕福な農家の四男

工藤會の地元・北九州市の玄関口「小倉駅」 (C)週刊実話 無断転載禁止 
工藤會の地元・北九州市の玄関口「小倉駅」 (C)週刊実話 無断転載禁止

私の生い立ちについてだが、脱税の公判に際し、毎日新聞は私のことをこう報じていた。

《捜査関係者らによると、野村被告は裕福な農家の四男として旧小倉市(現北九州市)で生まれた。中学時代から不良仲間と自動車盗などを繰り返し、少年院を出入りした。20代で工藤会系組員の舎弟になると、組織内の抗争をくぐり抜けて昇格を続け、11年(平成23年)7月に64歳で総裁に上り詰めた》(平成29年11月1日付)

まあ間違ってもいないのだが、別に私はトップになりたくてヤクザになったわけではないし、総裁職とは「ご隠居さん」のようなものである。《上り詰めた》という感じではない。

報道のとおり、私は昭和21年、当時の小倉市、現在の北九州市に男4人、女2人の末っ子として生まれた。

売却が決まった工藤會本部のあたりは、かつてほとんど父が所有していた土地だ。父は「(北九州日豊線の)南小倉駅の線路の南側でいちばんの働き者」といわれ、酒を飲んでも陽気な男であった。家庭内暴力ともまったく無縁であり、母も兄や姉たちも含めて誰もヤクザの関係者はいない。ヤクザになったのは私だけである。

「ワルソウ」を率いて

「そんな裕福な家庭に育ったのに、なぜヤクザに?」

たまに聞かれることではあるが、なぜ私がヤクザになったのかは、私にもわからない。しいて言えば「性分」なのだろう。

だいぶ前に若い者がカラオケで尾崎豊の歌を歌うのを聞いたことがあったが、それに「自分がグレたのは性分」という歌詞があり、耳に残った。尾崎は「グレる」ということを、芯からわかっているなと思った。グレるとは、まさに「性分」としか言いようがないのだ。

もっとも、小倉という街の空気もあるだろう。私が子どもの頃は戦後の混乱期でもあり、まだ炭鉱労働者や沖仲仕もたくさんいて、それはにぎやかで熱気があった。ガラが悪いともいえるが、八幡製鉄所から続く北九州工業地帯も高度成長を支えることになる。

もちろん、戦争で親を亡くしたりした貧しい子どもたちもたくさんいた。工藤會のメンバーも、故・溝下秀男御大をはじめとして、大半は貧困家庭の出身である。こうした子どもたちが食っていくために何でもやるのは、いたしかたないことでもあった。

北九州では、悪ガキやいたずらすることを「ワルソウ」という。漢字にすれば「悪僧」となるが、私は子どもの頃からこのワルソウたちを集めては悪さを繰り返し、揚げ句の果てに少年院に放り込まれて中学校の卒業式にも出られなかった。いいお坊っちゃんが何をしとるか、と呆れられるかもしれないが、私はこれこそが生粋の極道だと思う。

不良になるのに理由などいらないし、高校や大学に行っているようでは、ヤクザとして中途半端でいけない。もっとも、私が盃をもらうことになる木村清純氏(のちの工藤会田中組二代目)は大学を出た。何にでも例外はあるということだ。

この木村氏は私の博奕の師匠でもあり、博奕のやり方だけではなく賭場での所作なども教えていただいた。垢ぬけてスマートな俠(おとこ)であった。昔は、こんなヤクザもたくさんいた。無茶苦茶やるのもヤクザだが、立派な俠客として生きるのもヤクザの道である。

だが、私が木村氏から盃をもらったのは、自分が博徒として生きたかったからで、別に「親分」と呼ばれたいと思ったわけではなかった。博奕をするには、組に籍があったほうが何かと都合がいいのである。

博奕は十代の頃から好きで賭場に出入りしており、大負けして親の土地を売って穴埋めしたこともある。母を泣かせてしまうことになり、これは今となっては悪かったと思っている。

そんなことを振り返りながら、稼業入りの経緯や抗争事件などについて、ペンを走らせてみようと思う。

工藤會・野村悟総裁「獄中手記」④に続く

あわせて読みたい 工藤會・野村悟総裁「獄中手記」