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田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part6~政治評論家・小林吉弥

田中角栄 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

野党の公明、民社両党の策動に乗って、自民党総裁選で中曽根康弘首相の「再選」阻止に動いた二階堂進は、以後、中曽根から徹底的に干された。

田中角栄が倒れる前まで、中曽根は田中の手前、二階堂を党の副総裁として収めていたが、脳梗塞で倒れたのをいいことに、その後の改造人事では、副総裁からなんの実権もない党の最高顧問に棚上げしてしまった。

一方、二階堂が田中派内で影響力を失う中、これを見て取ったように、やはり田中派幹部の竹下登が近い将来の天下取りを目指し、「派中派」としてのグループづくりに拍車をかけ始めた。

田中派内の急進的な「世代交代」論者でもあった金丸信と小沢一郎が暗躍し、田中の反対を押し切ったうえ、田中派内に竹下グループとしての「創政会」旗揚げを推進。金丸は、中曽根の「再選」を機とした改造人事で、自民党幹事長の座を手にしていた。

田中派内の二階堂をはじめとする山下元利ら「反竹下」の幹部、長老クラスは、この旗揚げに強く反発した。しかし、御大の田中が表舞台に出られず、最大派閥ながら総裁候補も出せない状況が続けば、田中派は衰退していく以外はない。中堅や若手議員は「派閥を守るため」を〝錦の御旗〟として、この動きに賛同したのだった。

昭和59(1984)年12月25日、金丸と小沢は築地の料亭「桂」に、密かに若手議員14人を集め、グループ結成の決意を述べた。年が明けた1月23日には、「桂」に25人が集まった。参同者は、ジワリと増えていった。

23日の席で、竹下はこう口火を切った。橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、羽田孜ら田中の子飼いが顔をそろえていた。

“釈明”のため目白の田中邸を訪れた竹下

「私はすべてを燃焼し尽くし、一身を国家のために捧げる覚悟で、ここに来ている」

しかし、ここで「竹下を首相候補とし、グループの名前を『創政会』とする」との〝密約〟が新聞に漏れ、1月27日、慌てた竹下は釈明のため目白の田中邸を訪れた。

秘書だった早坂茂三は、後日、このときの模様を筆者にこう話してくれた。

「オヤジ(田中)は、表向き動揺を見せることはなかった。竹下は『田中派とは、もとより〝同心円〟の政策集団です』と言ったら、オヤジは『国を思うなら、勉強は結構なことだ。ただし、(新しい派閥をつくるなど)ヘンな方向には行かんように心してやれ』と言い置いた。また、オヤジは『(中曽根〝再選〟阻止の動きをした)二階堂は、それにしても若いモンを動揺させたようだな』とも付け加えた。これは竹下に近い当時の中堅議員から耳にした話だ」

かくて、田中からの認知を受けたと理解した竹下は、2月7日に「桂」で「創政会」旗揚げの初会合を開いた。

田中としては、参加者が多くては自らの威信に関わる、一方の竹下は、なんとか多数の参加を得ることで会の勢いを示威したいとの思惑で、前日夜まで双方の激しい田中派議員〝説得合戦〟が続いた。

結局、竹下、金丸、小沢らは旗揚げ当日の参加人数を約80人としていたものの、集まったのは半数の40人であった。それまで田中によりポスト、資金面で恩恵を受けていた議員たちが、田中の説得で二の足を踏み、初会合への参加を見送ったのである。

田中真紀子が父の無念を晴らすべく…

この「創政会」の初会合で、竹下は参加者全員にカネを配った。「一人当たり数百万円。ただし、金額はそれぞれのキャリアによって異なっていた」(参加者の関係者)と言われている。派閥結成時にカネが配られることは、当時としてはごく当たり前の〝慣習〟でもあった。

そして、カネが配られたということは、「創政会」が単なる田中派内の政策集団、勉強会ではなく、すでに実体が「竹下派」であることを物語っていた。

こうした流れの中で、田中は衆参の田中派議員の会合などで、しばしばこう熱弁を振るっていた。

「われわれ木曜クラブ(田中派のこと)には、この国を背負う人材が多々いる。二階堂、江崎(真澄)、後藤田(正晴)の諸君だ。必ずこうした人材を(首相として)、遅からず木曜クラブから送り出す!」

田中の演説を聞く中に、当然、竹下もいた。しかし、首相候補として竹下の名前が出ることは、一度としてなかった。

一方、このように二階堂の名前がしばしば挙がることに対し、竹下シンパからは「二階堂の名前は当て馬だろう」との声も出ていた。

なぜなら、田中の最愛の娘・田中真紀子の思いが、言葉として次のように永田町で流布していたからである。

「私は、政治家は大嫌いです。二階堂さんは、父を裏切った(二階堂擁立構想)でしょ。政治の世界は好きではありません」

真紀子はやがて、倒れた父の無念を晴らすべく、その「好きではない政治の世界」へ進出する。当初の国民人気は抜群であったが、こうした中でも二階堂との交流は一切なかったとされている。

(本文中敬称略/次回から新章「人生の岐路」が始まります)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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