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川田利明「俺だけの王道」~一度は使ってみたい“プロレスの言霊”

川田利明
川田利明 (C)週刊実話Web

寡黙で殺気漂う雰囲気から、付いた呼び名は「デンジャラスK」。しかし、リングを離れた川田利明は、冗談好きで多弁だといわれる。

高校時代からの先輩・三沢光晴との愛憎劇など、そのプロレスラー人生は実に複雑で味わい深い。

2000年に起こった三沢光晴ら選手、スタッフの全日本プロレス大量離脱。この時、川田利明と渕正信、太陽ケア(マウナケア・モスマン)の3人だけが全日に残留した。

ジャイアント馬場と元子夫人から目を掛けられていた渕やケアは、「さもありなん」といったところだが、川田の残留については当時からさまざまな臆測が飛び交っていた。有力とされる説には、以下のようなものがある。

①団体に借金があった=当時の全日は試合中のケガであっても公傷扱いとはならず、治療費などは会社負担ではなく自費で支払うことになっていた。また、ファイトマネーも年俸契約ではなく1試合いくらの計算だったことから、故障欠場の多かった川田はかなりの額を会社に立て替えてもらっていた。そのため、契約更改の交渉時に会社から「契約しなければ立て替え分を完済せよ」と迫られ、他の選手が更改を渋る中で川田1人だけが契約を継続することになった。

②団体内で浮いていた=ダチョウ倶楽部など芸能関係者と親交が深かった川田は、彼らとの付き合いをレスラー仲間よりも優先する傾向があり、選手間で浮いた存在となっていた。そうしたことへの嫉妬もあって、選手間の話し合いに呼ばれず、大量離脱の話も聞かされていなかった。

③新日本プロレスの画策=三沢独立の噂が業界内に流れていたことから、全日との対抗戦を狙った新日が、事前工作として川田に残留するよう声を掛けていた。

さまざまな事情が絡み合って…

④三沢が川田を嫌っていた=川田の全日入りは先に入団していた三沢が誘ったものであり、その時点ではもちろん良好な関係であっただろう。しかし、川田が天龍源一郎の軍団「レボリューション」に属したことで対戦の機会が増えると(当時の三沢は二代目タイガーマスク)、川田の身勝手で荒っぽいファイトスタイルに対し、三沢は苦言を呈するようになっていった。その後、「超世代軍」としてタッグを組むようになってからも不仲は続き、当時の川田について三沢は、「試合中に気に入らないことがあるとふてくされて、パートナーがやられてもタッチしなかったり。俺と小橋(健太)と川田で組んで6人タッグをやってたとき、何が気に入らないのか試合を投げ出して、怒って帰っちゃったこともありましたね」などと語っている。

⑤自らの意思で残留した=三沢らの大量離脱を受けての会見で、川田は「全日本の看板を捨て切れなかった」と語っている。

いずれの説も一長一短。例えば全日への借金は、もし三沢側が川田を必要とするならば肩代わり可能であり、全日との契約については、のちに川田自身が「馬場の死後は専属契約を結んでいない」との発言をしている。

また、三沢が本心から川田を嫌っていたとしても、それをビジネスにまで絡ませるかとなると微妙なところだ。

「全日の名を守りたい」ということについては、その後に川田が団体を離れたことと矛盾するようだが、心変わりは往々にしてある。残留を決めた当時の気持ちが、そうであったことは否定できない。

結局のところ、どれか1つの決定的な理由があったというのではなく、さまざまな事情が絡み合って残留を決意したということではなかったか。

武藤社長体制の否定とも受け取れる著書

その後、全日の看板を背負って新日との対抗戦に打って出た川田は、00年10月9日の東京ドーム大会で佐々木健介から勝利を収めた。

翌年1・4のIWGP王座決定トーナメントでは、健介の返り討ちにあったものの、天山広吉や小島聡らとのシングル戦に勝利。02年2月には、武藤敬司を破って三冠王座を奪取している(三冠王座は小橋が全日離脱時に返上。王座決定戦で川田を破った天龍を経て、武藤へと移動していた)。

全日のエースとしての重責を担って闘い続けた川田だが、負傷した右膝の悪化を理由に長期欠場となる。そして、03年の復帰前に発行された著書が『俺だけの王道』であった。この頃の全日はすでに武藤社長の体制下にあり、そこで川田が「俺だけの王道」と言ったことは、武藤体制の否定とも受け取れよう。

書籍の題名は基本的に出版社の意向で決められるもので、実際にも「全部お任せ」というレスラーは多いが、川田はインタビュー記事などもしっかり自分で修正を入れるタイプであり、すなわち、この題名も川田の意向を反映したものに違いない。

以降の川田は、全日での試合を続けながら、同時に「ハッスル」などにも参戦。すると「モンスターK」を名乗り、これまで見せることのなかったコミカルなマイクや控室での寸劇を披露した。その一方で、05年7月18日のプロレスリング・ノア東京ドーム大会では、5年ぶりに三沢との一騎打ちを実現した。

09年6月13日に三沢がマット禍で亡くなると、同年10月の三沢光晴追悼興行以降はノアへの参戦が増えたが、徐々にフェードアウト。10年に居酒屋『麺ジャラスK』を開店させると自ら厨房に立ち、「引退」こそは表明していないがレスラーとしての活動は休業状態となっている。

《文・脇本深八》

川田利明
PROFILE●1963年12月8日生まれ。栃木県出身。身長183センチ、体重105キロ。得意技/パワーボム、ジャンピング・ハイキック、デンジャラス・バックドロップ。

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