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「歩く広告塔」田中角栄の事件史外伝『越山会―最強組織はどうつくられたか』Part5~政治評論家・小林吉弥

衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

前号で記したように、田中角栄の選挙を圧倒的支持で支え続けた政治家最強にして最大の後援会組織「越山会」は、田中が〝腕力〟を発揮して地元新潟、とりわけ選挙区の〈新潟3区〉内に持ち込んでくる莫大な公共投資予算を、とくに越山会系の土建業者に事業として振り分けることで成り立っていた部分が多い。これに、田中の個人的な魅力が加味されての、強力組織ということであった。

「越山会査定」として、その公共投資予算の業者への振り分けを担ったのが、田中が全幅の信頼を置いた秘書でもあり、普段は東京の田中邸事務所を預かる山田泰司であった。山田は、田中の「江戸家老」と言われていた。

山田は、夏の大蔵(現・財務)省原案が固まる頃に〈新潟3区〉入りし、その業者が所属する最盛期300にも細分化された市町村の各地越山会が、選挙の際にどの程度の協力をしたか、具体的に言えば「票」の出し方で予算を振り分けていた。まさに〝信賞必罰〟の予算配分ということだった。

そうした各地越山会の選挙における支援を鼓舞し、選挙後は厳密な分析で各地越山会の「成績表」を整理したうえ、先の山田に最大の〝資料〟として報告していたのが、山田の「江戸家老」に対して「国家老」と呼ばれた、本間幸一という秘書であった。

“越山会査定”で予算配分が厳しくなりかねない…

本間もまた、田中への献身一筋の男であった。肩書は〈新潟3区〉内に君臨し、田中の運輸事業の拠点である越後交通の専務取締役であったが、実のところ〝本業〟は各地越山会に、田中の選挙でいかに票を出させるかにあった。長岡市にある越後交通本社2階の専務室に陣取り、とくに前回選挙で「得票率」の悪かった越山会に目を向け、口調は柔らかいが電話での厳しい督励を四六時中していた。

「前回はご努力が足りなかったようですが…」と、本間からの電話を受けた越山会の幹部は、そろって震え上がるのが常であった。なぜなら、東京の江戸家老に報告される成績表の点数が悪いと、越山会査定で公共投資予算の配分が厳しくなりかねないからである。

ちなみに、本間はなかなかの知恵者で、現在はどの政治家でもよくやっている後援会員のバス旅行なども、すでに越山会が正式に発祥した昭和30年代後半には提案、実行に移していた。越山会会員を越後交通の観光バスに乗せて何台も連ね、まずは東京のホテルに1泊させた翌朝、目白の田中邸で田中と歓談、記念写真を撮ったあとは熱海などの行楽地へ運ぶのである。

会員たちは憧れの「田中先生」に会って大満足、これで次回選挙の田中票が増えるうえに、越後交通も利益が出るといった、まさに損する者はなく三方とも得をする寸法だったのである。

そうして山田、本間に続く、もう一人の田中側近で、越山会の組織づくりに貢献した人物がいた。東急電鉄グループの創始者だった五島慶太の「懐刀」とも言われた男で、田中角栄という若手政治家の将来を買っていた田中勇であった。

田中勇は田中の秘書とはならなかったが、越山会の組織化に多大なる寄与をした。とりわけ計数に明るく、先に本間が各地越山会の「得票率」に注目していたと記したが、この〝手法〟を編み出したのは、実はこの田中勇だった。

各地越山会の田中へ出した単なる票の多寡だけでなく、有権者数に比して何%の票を出したかで、田中勇は各地越山会の〝ヤル気度〟を測った。各地越山会には有権者数の違いがあり、票の多寡だけでは全容が見えてこないことから、より精緻な「票」の分析法を実現させたのである。

田中勇のもうひとつの知恵は、越山会に「肩書」を導入した点にあった。筆者は若い頃、越山会の肩書の種類を調べたことがあったが、次から次に出てくることで驚いたことがある。各地越山会とも、ある程度の年数を重ねた会員のほぼ全員に、何らかの〝役職〟が付いていた。

会長はもとより、幹事長、総務会長、政調会長から監事、顧問、相談役…といった具合で、それぞれ「副」も付くことから大変な数となったのだった。そのうえで、どうしても当てはまらぬ人物には「幹部、役員という肩書を付けることができる」と、某越山会の「幹事長」氏は次のように語ってくれた。

「女性の支持を大事にすべし」

「まァ、肩書というものは、ある意味で人間の生きがいに通じる。生きがいがあれば、皆よく働くのです。企業でも、ヒラから主任、課長といった肩書が付いた途端、ヒラ時代とは一変した働きを見せる人間はいっぱいいる。越山会も同じだ。ほとんどの会員が何らかの肩書を持つから、選挙となると、皆がこの肩書をフルに使って、粉骨砕身、田中先生の票を掘り起こすため、まるでコマネズミのように動き回るのです。肩書の付与を〝生きがい論〟と結び付けた、田中勇さんの功績は大きかった」

越山会を支えた知恵者の秘書、側近たちではあったが、実は選挙となると最も先頭に立ち、田中の集票に貢献したのは、越山会の婦人部であった。これについて、田中自身は次のように語ったことがある。

「選挙でもそうだ。男は一杯飲ませれば転んでくれる。しかし、女性はそうじゃない。一度、こうと決めて支持してくれたら、もう動かない。浮気はしない。むしろ、あちこちで宣伝に努めてくれる。近所の奥さんに売り込んでくれる。〝歩く広告塔〟になって、支持を取りつけてくれるのだ。女性の支持を大事にすべしだ。そのへんが分からんヤツが、選挙に勝てるわけがない」

女性への洞察力はピカ一だった田中の、まさにむべなるかなの言葉であった。

(本文中敬称略/Part6続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。