かなり昔の出来事なので「湯口事件」という言葉にピンとくる野球ファンは少ないかもしれない。
しかし、この事件は、まだ「パワハラ」や「コンプライアンス」などという言葉が日本に登場するはるか昔に起こった、決して忘れてはいけない出来事なのである。
時は、1970年初頭にまでさかのぼる。甲子園を沸かせたヒーロー球児で、湯口敏彦という男が岐阜県にいた。
岐阜短期大学付属のエースとして、夏の甲子園ではベスト4まで進出し、巨人にドラフト1位で指名され、1971年に入団した。
鳴り物入りで入団したものの、当初から問題視されていた制球難がプロに入って直るどころか悪化し、1年目と2年目は公式戦で投げることはなかった。
そして、2年目のシーズンオフに開催されたファン感謝デーの紅白戦に登板したものの、大乱調で川上哲治監督(当時)と中尾碩志二軍監督(当時)に厳しく叱責されてしまったのだ。
川上哲治監督の信じられない失言
この頃から様子がおかしくなり、湯口は後にうつ病と診断される。一時は回復し、キャンプに合流することになったものの、話しかけても反応しない、奇声をあげるなどの奇行が治らず、再入院を余儀なくされた。
ついには3年目のシーズン開幕を控えた73年3月に入院先の病院で急死。球団からは心臓麻痺と発表された。
甲子園のヒーローからドラフト1位で巨人に入団しながらも、成績が伸び悩み、苦悩の日々を送っていた湯口。まだ10代の多感な時期に、首脳陣から厳しく叱責される場面がしばしば目撃されており、そのストレスがうつ病の要因になったことは容易に推測できる。
死因は心臓麻痺とのことだが、体そのものは健康であり、当時は湯口の自殺を疑う声も多かったという。
湯口の死後、川上監督は「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ、年月をかけて愛情を注いだ選手なのですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかったことです」などと失言。また、週刊誌が湯口の自殺説を唱える記事を掲載し、湯口の父親の手記を発表したことからバッシング報道に火がつき、川上監督と巨人軍に非難が集中した。
結局、この年のドラフト会議で、巨人に指名された7選手のうち4選手が入団を拒否。当時の巨人が大きくイメージを落としたことがうかがえる。
彼の死因が自殺だったのか否かは現在も不明だが、「湯口事件」は、田舎から夢を持って東京に来た才能ある若者を、組織の傲慢さが潰してしまった悲劇と言えるだろう。
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