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長崎の街で偶然出会った前川清~島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七 
島田洋七 (C)週刊実話Web

俺は野球のために、佐賀から広島の広陵高校へ入学したんです。高校3年生の時、佐賀の同級生のところに遊びに行ったら、長崎に行ってみようとなった。

夕方4時頃、長崎の街をぶらぶら歩いていると、国際楽器店という店の傍から、キレイなギターの音色が聞こえてきたんです。スーツを着た人がギターを弾いていて、それに聴き惚れてジーッと見ていたら、その人と目が合いましてね。「君たちどうしたの?」と話し掛けられたんです。

「こんなに上手いギターを聴いたのは初めてでビックリしました」と答えると、「キミらは夜の10時頃まで暇?」と聞かれたんです。10時頃の佐賀行の電車で帰ろうと思っていたから「暇といえば暇です」。すると、スーツ姿の男性が「バンドをやっていて、今夜はキャバレーとダンスホールの2軒掛け持ちなんだけど、バンドボーイが休みだから、セットを運ぶのを手伝ってくれないか」と誘われ、3000円ずつ前払いでバイト代をくれたんですよ。50年以上前の話です。

時間通りに指定されたキャバレーへ行って、楽器をダンスホールへ運んでね。ステージが終わるとラーメンまで奢ってもらいました。

数年後…俺がまだ広島の青果店で住み込みで働いていた頃、『ロッテ歌のアルバム』という音楽番組を見ていたら、「内山田洋とクール・ファイブです」と紹介されて出てきたメンバーをよく見ると、長崎でセットを運ぶのを手伝ったバンドだったんです。

ウーロン茶しか飲まないのに30万…

「この人たち俺、知っとるわ」と声に出したら、青果店の若旦那が「この人たちは、いまスゴイ売れとるよ。なんで知っとるの?」と問われ、長崎の出来事を話したけど、信用してもらえなかったですね。

その後、俺は芸人になって東京へ進出した。東京だと歌手の前座を芸人が務めることが多くて、数カ月先にクール・ファイブの北海道公演の前座の仕事が入っていたんです。その間に、漫才ブームが起きて、俺らもテレビにしょっちゅう出るようになっていた。

いざクール・ファイブの北海道公演、「覚えてますか?」と楽屋へ挨拶に行ったら、内山田さんが「覚えてるよ。徳永くんだろ?」と本名を言われたのには驚きました。バンド内で「B&Bという最近売れている漫才コンビの顔が丸い子は、長崎で手伝ってくれた子じゃないの?」と話題になっていたらしいんです。

その時、前川清さんと電話番号を交換して東京へ戻ったら飲みに行く約束をしました。当日、前川さん、ビートたけし、俺の3人で銀座へ飲みに行った。前川さんは、当時はお酒を一滴も飲まなくてね。1軒目の会計をしようとしたら「俺が先輩だから払うよ」と言ってくれたんですけど「僕らが払います」となって、支払いをジャンケンで決めたんです。そうしたら前川さんが負けて、ウーロン茶しか飲んでいないのに13万円くらい払ったんですよ。

2軒目もジャンケンで決めたら、また前川さんが負けてね。十数万払ってた。調子に乗ったたけしが「もう1軒行こう」と言い出したら、前川さんは「僕はもう帰る」。そりゃ、そうですよね。ウーロン茶を数杯飲んだだけで30万円近く払ったんだから(笑)。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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