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田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part5~政治評論家・小林吉弥

田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part5~政治評論家・小林吉弥 
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

田中角栄が総裁選において、田中派内から時の中曽根康弘政権への対抗馬を出すことは、大きく二つの理由で「ノー」であった。

一つは、田中派が田中を「絶対君主」として一致団結し、あらゆる政争に連戦連勝してきたのは、あくまで田中の陣頭指揮の下で動いたからであった。

ここで田中という大領袖を一方に置いて、家臣クラスが派の代表たることは、田中の威信低下につながることが避けられない。以後のロッキード裁判に〝にらみ〟を利かせたい田中としては、自分が君主の座から降りることはできないという事情である。

もう一つは、ここまでの中曽根首相が、田中を強く牽制する政権運営をした形跡がなかったことで、中曽根をこの「再選」時も支持することが〝次善の策〟との考えがあったからである。もとより〝最善の策〟は田中が政権の座に返り咲くことだが、それはかなわぬことであった。

ために、中曽根「再選」阻止に自分が出馬すると、田中との直談判に臨んだ二階堂進に、「ノー」を出さざるを得なかったのである。

あらゆる社会の組織におけるトップリーダーは、こうした形でその足元を揺さぶられるケースがままある。トップリーダーとして大きな危機に瀕した田中が、こうした苦境を回避できたのは、じつは一にも二にも「田中人脈」の広大さにあったと言えた。

いったいどういうことだったのか。二階堂が中曽根の対抗馬たるを決意したのは、時の野党の公明、民社両党が、ロッキード裁判を抱えて窮地に立つ田中を尻目に、保守・中道の連立政権のチャンスありを夢見たことにあった。

情報通の田中が知らぬはずはなかった…

与野党伯仲状態の今なら自民党内の他派も、田中が「闇将軍」としてなお政治を牛耳っていることに批判的な声が少なくない。田中の信頼厚い二階堂が決断し、これに自民党の一部が乗ってくれれば、保守・中道連立政権の可能性は十分にあると読んだことにほかならなかった。ところが、こうした策動を情報通の田中が知らぬはずはなかったのである。

当時、この「二階堂擁立構想」を取材していた田中派担当記者の、次のような証言が残っている。

「当初の公明、民社両党は、二階堂と気脈を通じた鈴木善幸率いる鈴木派を筆頭に、田中への反発が多い福田赳夫の福田派など自民党他派を加えれば、首班指名で二階堂が中曽根に勝てると計算していた。

ところが、田中と二階堂がサシでの会談をやった場面では、じつはすでにこの『擁立構想』が田中の耳に入っていた。公明、民社両党には、田中の幹事長時代から国会対策、選挙などで世話になっていた議員が多々おり、こうした議員によって情報が入っていたということだった。

また、田中の盟友だった大平正芳首相の後を継いだ鈴木派にも、田中と気脈を通じていた議員が存在し、とても本気で動いていたとは言えなかった。福田派などは、早々と『この構想はつぶれる』と見抜き、こちらも大きな動きにはならなかった。田中の〝情報戦〟での勝利と言えたのです」

そのうえで、仮に鈴木、福田の両派が本気で動けば、二階堂を首相とした保守・中道の連立政権が誕生していたとの分析もあった。

結局は幻に終わった「二階堂擁立構想」の後、自民党総裁選で中曽根の再選が決まった。昭和59(1984)年10月末であった。

苛烈な中曽根の「報復」

一方、自らの追い落としをうかがった二階堂に対し、中曽根の「報復」はなんとも苛烈なものであった。

この年の4月には、前年(昭和58年)12月の第1次中曽根内閣における解散・総選挙で、与野党伯仲に追い込まれた〝敗北責任〟として、中曽根は直後、二階堂の幹事長としてのクビを切っていた。再選後は一応、党副総裁として収め直したが、それもわずか1年でクビを切り、実権のない党最高顧問として棚上げの挙に出たのである。

しかし、こうした二階堂の反乱は、田中との距離を急速に生じさせることになった。田中にとっては「この俺が、ついに忠臣に寝首をかかれた」との思いが、いつまでも去ることはなく、ウイスキーのメートルが一気に上がり始めた。

さらに、田中と二階堂の確執の一方で、今度は田中派内で「世代交代」への動きが活発化してきた。田中派幹部にして中曽根内閣の大蔵大臣だった竹下登が、田中の〝待った〟を聞かず、近い将来の天下取りを照準に定め、本格的な〝派中派〟づくりに動き始めたのである。

こうした権威の失墜の中で、田中はそれを紛らわせるかのように、昼間からウイスキーの『オールド・パー』をあおり飲んだ。まず、グラスにドボドボと『オールド・パー』を注ぎ込み、水はほんの〝おしるし〟だけの、とんでもない〝水割り〟である。

これを1日、何杯となく飲む。普段は赤黒く精悍な田中の顔色は、この頃には「むしろドス黒かった」と、多くの田中派議員が証言していた。

その田中が倒れるのは、幻の「二階堂擁立劇」から4カ月後、竹下が正式に〝派中派〟としての「創政会」を旗揚げして、わずか3週間後であった。

結局は、田中派内で重なった二つの動乱が、さしもの「闇将軍」の命をも縮めることになったのである。

(本文中敬称略/Part6に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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