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田中角栄の事件史外伝『忠臣・二階堂の乱――竹下登と張り合う身中の虫』Part4~政治評論家・小林吉弥

田中角栄
衆議院議員、自民党、首相=1973(昭和48)年8月5日撮影(C)共同通信社

田中角栄が金脈・女性問題で退陣したあと、二階堂進は三木武夫政権の誕生に徹底抗戦した。

これも手伝って三木は政権発足に当たり、田中政権末期の自民党幹事長だった二階堂を留任させることはなかった。これを機に、二階堂は三木政権が崩壊したあとも、その後の福田赳夫、大平正芳の両政権で陽の当たるポストに就くことはなく、大平の急死により登場した鈴木善幸政権のもとで、ようやく党3役の一角、総務会長のポストに就くことができた。ツキに見放された時代ということである。

また、この間に二階堂は、米ロッキード社による大型ジェット旅客機「トライスター」の全日空(ANA)への売り込みに関し、金銭授受があったとして「灰色高官」の名も冠せられた。本人は無実を主張して「人権侵害」で抵抗したものだが、三木はもとより福田、大平両政権も〝臭いものにはフタ〟が得策という姿勢であった。

そうした中で、田中の後押しを受けて誕生した鈴木内閣も、「政権として物足りない」として田中に愛想を尽かされ、1年半余で退陣を余儀なくされた。田中がその後継に選んだのが、中曽根康弘である。

田中の中には、来たるべきロッキード裁判一審判決に中曽根がどうにらみを利かせてくれるか、政権を田中派とどう連携して運営してくれるかの〝期待感〟があったとみられている。

かくて、昭和57(1982)年11月、田中派の強い支持を受けて中曽根が総裁選予備選挙に圧勝、政権の座に就くことになった。時に、二階堂は鈴木内閣で総務会長から幹事長になっていたが、田中の意向もあり、そのまま幹事長として留任した。官房長官に田中の腹心である後藤田正晴、大蔵大臣に竹下登、ロッキード裁判をにらむ法務大臣に秦野章など、田中派からじつに7人が入閣したものだった。ために、この発足した中曽根内閣には、「第3次田中内閣」「田中曽根内閣」と揶揄する声があった。

田中の反対を押し切って出馬を決断

昭和58年10月、そうした中で田中のロッキード裁判一審判決があり、懲役4年、追徴金5億円の実刑判決が下された。これには、田中の影響を受けすぎるとして、野党はもとより自民党内からも中曽根内閣の責任を問う声が噴出し、ついには衆院の解散・総選挙へ追い込まれていったのだった。

当時の田中派担当記者の、こんな証言が残っている。

「このとき、すでに中曽根首相と二階堂幹事長の間は冷えきっていた。なぜなら、中曽根内閣の発足に伴って、二階堂が推した者が田中派から1人も入閣していなかったのだ。二階堂が中曽根に『なぜか』と問うと、中曽根は『閣僚に関しては角さんと話がついている』と素っ気なく、二階堂としては入閣をにおわせていた親しい田中派議員の手前、面目丸つぶれだった」

そのうえで二階堂は、ロッキード判決後の国会空転を回避するため、それこそ銀髪を阿修羅のように振り乱しながら、連日連夜、野党各党の幹事長、書記長、国対委員長らと会談、局面打開に腐心していた。嫌いな中曽根政権を守ることは田中を守ることでもあり、中曽根のためでなく田中のために全力投球をしていたのである。

しかし、中曽根は衆院の解散に追い込まれ、結果、自民党は大幅に議席を減らし、与野党伯仲となる敗北を喫した。結局、二階堂が敗北の責任を取って幹事長を外れ、ひとまず第2次中曽根内閣は再出発することができた。昭和58年12月のことである。二階堂は翌年4月、ここで無役から党副総裁に就任したものの、中曽根との距離は依然として縮まなかった。そうした中で半年後の10月末、中曽根再選をめぐる総裁選に、二階堂は田中の反対を押し切っての出馬を決断したということだった。

結果、本稿の第1回(7月15日号)で触れたように、10月27日早朝に東京・目白の田中邸の一室で、田中と二階堂は中曽根の対抗馬たるをめぐっての〝ヒザ詰め談判〟ということになった。

「公民」の策動に乗る

時に、二階堂は田中に向かって、「(ここには)あなたと刺し違える覚悟で来ている」とまで口にした。田中が出馬にノーを出しても、すでに二階堂の出馬の腹は決まっていたわけだが、ここに至るまでには、野党を巻き込んだ政権交代への策動があったのだった。

二階堂の田中への強気の弁の裏には、じつは公明、民社の両野党が与野党伯仲を利して中曽根政権をつぶし、保守・中道の連立政権へ向けて動いていたことがあった。

そのうえで、この策動は密かに自民党の福田、鈴木の両元首相にも持ちかけられ、福田は田中への宿怨を引きずっており、鈴木もまた政権を田中に左右されたことでの不満があったことで、連立構想に〝半身〟を乗り出していた。

新橋の料亭「金田中」の一室に、鈴木、公明党の竹入義勝委員長、そして二階堂の3人がいた。鈴木、竹入は「二階堂さん、あんた立ったらどうか。『公民』両党は、一致してあんたを推す。自民党内も〝反中曽根〟〝反田中〟の空気は強い。勝てるよ」と、けしかけたのである。

こうした言葉に「あの鈴木(善幸)だって総理になれたのだから、俺がなれないわけはない」との思いが強かった二階堂の野心が、選挙区鹿児島の桜島の噴火のように弾けたということだった。

しかし、政界にあらゆる情報網を持つ田中が、こうした大胆な動きを知らぬわけはなかった。じつは、二階堂とのサシでの会談を前に、すでに「二階堂擁立構想」つぶしに着手していたのだった。政局で先手を握るのは、田中が一枚も二枚も上手だったということである。

(本文中敬称略/Part5に続く)

【小林吉弥】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。最新刊に『新・田中角栄名語録』(プレジデント社)がある。

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