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ジャーナリスト・大宅壮一“勝つまでやめない「暁の壮一」”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』

ジャーナリスト・大宅壮一“勝つまでやめない「暁の壮一」”~灘麻太郎『昭和麻雀群像伝』 
灘麻太郎『昭和麻雀群像伝(画像) Nor Gal / shutterstock

1957年、未来を予見していた大宅壮一は、まだ白黒テレビの世帯普及率が10%に満たなかったにもかかわらず、週刊誌のコラムで低俗なテレビ番組をやり玉に挙げ、「これでは一億総白痴化である」と痛烈に批判した。

この〝一億総白痴化〟なる造語は、当時の流行語としてマスコミ受けするが、現代なら流行語大賞に選ばれて間違いないところだろう。

ほかにも大宅は、49年に50校ほどの新制国立大学が設置されたことを〝駅弁大学〟と称し、50年代に入って女性解放の傾向が顕著になると〝恐妻論〟をもって揶揄するなど、流行語の宝庫であり続けた。

現在、大宅の名は膨大な蔵書資料を元にした雑誌ジャーナリズムの図書館「大宅壮一文庫」の存在と、没年となった70年に彼の半世紀にわたるマスコミ活動を記念して制定された「大宅壮一ノンフィクション賞」によって、若い世代にも広く知られている。

一貫して庶民の平衡感覚を維持しつつ、不屈の批判精神を発揮した大宅は、守備範囲の広さにも定評があった。バクチによる家庭崩壊や自殺などが相次いだ50年代の半ばには「公営ギャンブル廃止論」が高まったが、大宅にはギャンブルの本質を鋭く突いた『賭博論』と題する秀逸な評論もある。

〈賭博は一見どんなに確実そうに見えても、それが絶対ではなく、自分の力ではどうにもならない因子によって勝負が左右されるところに、賭博が賭博たる本質があるのである。〉(筑摩書房『大宅壮一選集』第一巻所収)

賭博が有する魔力に言及したあと、大宅はさらにこう続ける。

〈その因子は普通「運」という言葉によって表現されているが、それが個人の主観と結びついた場合に、直感、霊感、第六感などと称せられるものになる。これは科学的な分析をしたり合理的に説明したりすることのできないものである。〉

家紋入り愛蔵牌は棺の中へ

大宅は麻雀が唯一の道楽であった。これこそ「運」に左右されやすいギャンブルの代表だが、大宅は独自の麻雀哲学を持っていた。いわく、日常の努力を惜しまない者が運を呼び込むのである――。

大宅の雀力はA級であったが、生来の負けず嫌いのため自分が勝つまでやめなかったという。マイナスからプラスに転じる秘策は、体力勝負となる徹夜麻雀に限る。人一倍体力に自信のあった大宅は、尻込みする若い門下生たちを徹マンに引っ張り込む。相手が眠くなりはじめる夜明けを機に、大宅は逆転に向かって一気に攻め入り、赤字が黒字に変わったところで、お開きの時間と相成る。そんな大宅の荒ワザに対して、ついたあだ名が〝暁の壮一〟であった。

大宅が亡くなる1年前、古希の祝いとして「ノンフィクションクラブ」の面々が、一筒に大宅家の家紋である「横木瓜」を彫り込んだ麻雀牌をプレゼントした。最高の贈り物を手にした大宅はいたく感激し、以来、その牌は愛蔵牌として使用されたが、翌年に帰らぬ人となった。

入院中、病状が悪化して失禁状態となった大宅は、おむつを交換する娘に薄目を開けながら「ふるさと見学だな」と、つぶやいたというユーモラスなエピソードが残っている。

家紋入りの愛蔵牌は夫人の手によって、他の遺品と一緒に棺に入れられ〝暁の壮一〟とともに灰になった。しかし、死後も命日には故人をしのび「大宅杯争奪麻雀大会」が毎年開かれている。怖い師匠ではあったが、後輩たちに広く愛されていたことが分かる。

高名な文士3人が討ち死に

大宅の生前、何かの会合が終わった後、渋谷駅の近くに3人の作家が集まっていた。吉行淳之介、阿川弘之、藤原審爾である。時計の針は午後3時、誰もがこのまま帰る気にはなれない。麻雀が好きな人間はいないかと話し合っているうちに、大宅の名が挙がった。そこで、吉行が電話をかけ、渋谷の雀荘で麻雀を打つことに決まり、手ぐすねを引いて待つ3人…。

3人とも大宅との手合わせは初めてだったが、暇つぶしとはいえ勝つ気満々で卓に向かった。ところが、1回戦目は大宅の圧勝。こんなはずではないと2回、3回と続けたが、結果は3人そろって討ち死にしたという。

数日後、私と阿佐田哲也がいるところに吉行がやって来て、大宅は本当に強いのかという話になった。

灘「評論家の大隈秀夫は弟子だけど、『麻雀は強いですよ。壮一麻雀でしごかれたおかげで、僕は第2期名人位になれたと思っています』と言ってたからね」

吉行「そうなのかなあ、あの日は一世一代のバカツキじゃないかと、いまだに思っているんだが…」

阿佐田「でも、人間としては立派な人らしいですよ。大隈いわく、ある弟子が地方へ行って『俺は第二の大宅壮一を目指している』と吹聴した。このことを伝え聞いた大宅氏は、その弟子を呼んで諭したらしい」

大宅の意見は次のようなものだった。

「第二の大宅を目指すのは見当違いだ。模造品はあくまで模造品でしかない。たとえ拙くても、君は第一の君であるべきだ。君の持ち味を出し、個性的な作品を書き、それを完成させる方向へもって行く努力をしなければならない」

この師弟談話を聞いた私は、さすが大宅壮一であると感心させられたのを覚えている。

(文中敬称略)

大宅壮一(おおや・そういち)
1900(明治33)年9月13日生まれ~1970(昭和45)年11月22日没。東京帝国大学(現・東京大学)文学部社会学科中退。昭和期を代表するジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。

灘麻太郎(なだ・あさたろう)
北海道札幌市出身。大学卒業後、北海道を皮切りに南は沖縄まで、7年間にわたり全国各地を麻雀放浪。その鋭い打ち筋から「カミソリ灘」の異名を持つ。第1期プロ名人位、第2期雀聖位をはじめ数々のタイトルを獲得。日本プロ麻雀連盟名誉会長。

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