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「なんでやねん」しか言わない洋八に大爆笑〜島田洋七『お笑い“がばい”交遊録』

島田洋七
島田洋七 (C)週刊実話Web

島田洋八とはB&Bとして売れたけど、実は洋八は3人目の相方なんです。最初は団順一(後の放送作家・萩原芳樹)で、2番目が西川のりお・上方よしおの上方よしおでした。

俺は東京へ出て、全国で売れて故郷のばあちゃんや母ちゃん、友だちに活躍している姿を見せたかったんですけど、先の2人は東京で勝負する気がなかった。当時、落語はネタの参考になるから笑福亭仁鶴師匠や桂文珍さん、桂三枝(現・桂文枝)さんの舞台をよく見ていたんです。よしおとコンビを解消した頃、三枝さんに「よう君は落語を見とるな。また相方と別れたらしいな」と話しかけられました。

三枝さんはトリだから出番が終わると、緞帳が下りて、吉本新喜劇の準備をするんです。それを見ながら三枝さんが「あの子はどうや? 君は丸くポチャッとした顔をしていて、あの子はハーフみたいでアイドルのような顔をしているからエエんちゃうか?」と指差したのが洋八だった。

三枝さんは『ヤングお―!お―!』(毎日放送)などのテレビ番組の司会もしていて「最近は若い女の子が漫才を見に来てファンも増えているから、男前の相方がいいんじゃないか」とアドバイスしてくれたんです。でも、俺は洋八のことをその時、初めて知ったので「素人とちゃいますか?」と難色を示すと、「そのほうがやりやすいやろ。何年か芸人やっとったら、自分の芸を出そうとして必ずぶつかる。何も知らないほうがエエで。君のほうが先輩やし、売れてるしな」と指摘してくれたんですよ。

漫才をやったことがないから邪魔にならない

新喜劇が終わって洋八に「一緒に漫才せいへん?」と話しかけると、「僕がですか? 喋れませんよ。まだ新喜劇に入って3カ月ですよ」と返されました。「三枝さんが君みたいのと漫才やったら雰囲気エエからと。それに稽古したら喋れるようになるわ」と諭しました。約1週間後、洋八が「一緒に漫才をやらせてください」と来たからコンビを組みました。

実際に稽古を始めてみると、洋八は漫才をやったことがないから邪魔にならないんですよ。俺がオチを言う時だけ「なんでやねん」とひと言。あとは黙っている。ある日「〝そんなはずないやろ〟とか、他にも言葉はあるやろ」と楽屋で言ったんです。すると近くにいた横山やすしさんが「洋七、なんでやねんばかり言わせておいて、それをツッコんだらウケるで」と助言してくれた。

舞台でその通り「お前はなんでやねんしか言わんな」とツッコんだら、大爆笑でした。それを繰り返していたら、洋八が「あー」と初めてアドリブで喋ったんですよ。後にも先にも「あー」と返す芸人なんて聞いたことないですよ(笑)。それからは俺らの漫才のパターンになりました。漫才ブームの頃には、洋八も場数を踏んで喋ることができるようになっていましたね。

ブームが去って「世の中は漫才に飽きたんかな。辞めようか」と持ち掛けると、洋八はあっさり「エエよ。俺は役者でもやるわ」と役者として舞台に出ていました。その後、何度か「漫才をやろう」と誘ったら、いつも「エエよ」と言ってくれる。ものすごくいいヤツですよ、洋八は。

島田洋七
1950年広島県生まれ。漫才コンビ『B&B』として80年代の漫才ブームの先駆者となる。著書『佐賀のがばいばあちゃん』は国内販売でシリーズ1000万部超。現在はタレントとしての活動の傍ら、講演・執筆活動にも精力的に取り組んでいる。

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